1~34号 1946年8月1日~1950年4月10日
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昭和21年(1946年)3月に『キネマ旬報』再建号の刊行をスタートさせた友田純一郎ら同人が、本家の『キネマ旬報』よりももっと芸術としての映画にフォーカスした形での別働隊として同年八月にスタートさせた雑誌で、発行所は映画春秋社となっているが、実際には編集部が置かれたのは、当時、『キネマ旬報』編集部があった京橋区新富町(現、中央区新富町)二丁目の同じ住所である。…
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内容面での特徴はやはり文学者など、文化人らに積極的にアプローチして健筆を揮わせている点だろう。邦画・洋画ともに俎上に載せているものの、どちらかというと洋画に範を取り、邦画界のレベルを底上げさせようという立場で、飯島正や植草甚一、双葉十三郎、清水千代太らの洋画についての論考もあるものの、印象としては邦画寄りの編集である。
創刊号には、病床にあった(そしてこの創刊号の翌月に46歳の若さで病死する)伊丹万作の有名な「戦争責任者の問題」という論考が掲載されているほか、新藤兼人の『待帆荘』(『持ちぼうけの女』の元となったシナリオ)が掲載され、以後、第5号からは毎号1、2編のシナリオが掲載されるのが恒例化した。取り分け、黒澤明、木下恵介、谷口千吉、新藤兼人といった30歳代の若手映画人たちへの期待が大きかったようで、彼らのシナリオを度々掲載しているのみならず、寄稿も依頼している。…(『映画春秋』解説 ・谷川建司(早稲田大学) より抜粋)
ISBN 978-4-89253-646-5 |
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1946年8月15日~1947年3月15日 |
1947年4月15日~1948年2月10日 |
1948年3月10日~1948年9月10日 |
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ISBN 978-4-89253-647-2 |
19 ~ 25号 |
26 ~ 30号 |
31 ~ 34号 |
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1948年10月10日~1949年7月10日 |
1949年8月10日~1949年12月10日 |
1950年1月10日~1950年4月10日 |
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『キネマ旬報』再建号 キネマ旬報社
第1号 ~ 第79号 1946年3月1日~1950年4月1日発行
廃刊から2年3か月、戦前からの同人、飯田心美を編集発行人とし戦後の再建第一号が発行された。伝えられている話では、戦前の創刊時からの主宰者であった田中三郎に『キネマ旬報』再建の相談を持ち掛けたところ、自ら再建する意思の無かった田中は快くこれを受け入れ、誌名を譲ったのだという。
ISBN 978-4-89253-626-7 |
1 ~ 10号 |
11 ~ 24号 |
25 ~ 36号 |
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1946年3月1日~1947年2月10日 |
1947年3月1日~1947年12月1日 |
1948年1月1日~1948年6月15日 |
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ISBN 978-4-89253-627-4 |
37 ~ 48号 |
49 ~ 60号 |
61 ~ 72号 |
73 ~ 79号 |
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1948年7月1日~1948年12月15日 |
1949年1月1日~1949年6月15日 |
1949年7月1日~1949年12月15日 |
1950年1月1日~1950年4月1日 |
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『アメリカ映画』 |
アメリカ映画研究所/編集=キネマ旬報同人 |
1~21号 1946年11月1日~1948年10月
『キネマ旬報』の別動隊としてアメリカ映画に特化した月刊誌。飯島正を編集兼発行人として発行された。発行元は便宜的にアメリカ映画研究所となっているが、実質的にキネマ旬報発行といえる。GHQ占領政策に沿って発行。「アメリカ映画によって日本人を民主化する」ことを目的とした。
ISBN 978-4-89253-635-9 |
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1946年11月1日~1948年1月20日 |
1948年2月20日~1948年11月20日 |
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1~25号 1950年8月10日~1952年3月15日
『キネマ旬報 再建号』休刊後の後継誌として戦前『キネマ旬報』の主宰者、田中三郎発行編集人として刊行。再建号休刊が単なる経営破綻ではなく二つの組合間での発行権を巡る内紛があったが故であり、いずれはどちらかが再発行する事が予想されたため、やむなく『キネマ旬報』の題名で出せなかった。
ISBN 978-4-89253-640-3 |
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1950年8月10日~1951年3月1日 |
1954年4月1日~1952年3月15日 |
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