【2016.8.1】 川崎賢子氏の書評を公開しました
「タツオ」としてよみがえる 川崎賢子 : 戸田桂太 『東京モノクローム 戸田達雄・マヴォの頃』

【2017.4.26】 『東京モノクローム』刊行を言祝ぐ詩 詩人鈴木志郎康氏作
関東大震災後のモノクロームがじわーっと来たね 鈴木志郎康

関東大震災の後、東京の至るところにバラックが建ち、食べ物を売る屋台店が並んで、焼原野の街に活気を溢れさせたという。銀座通りにも屋台の食い物屋がひしめいたことだろう。十万人以上もの死者が出、街が壊滅したにも拘らず、たちまちそこに活気に満ちた雰囲気が生れる。
「マヴォ」はその不思議なダイナミズムの真っ只中にあったのだろう。 (著者「あとがき」より)
遅れてきた”マヴォイスト”、マヴォイストたちとの交流、広告図案社「オリオン社」立ち上げまで。河目悌二、村山知義、柳瀬正夢、萩原恭次郎、大手拓次、尾形亀之助らと過ごした戸田達雄青春時代を描く評伝作品。
本書の内容
第一章 関東大震災の日に
第二章 ライオン歯磨広告部画室
第三章 遅れてきた”マヴォイスト”
第四章 尾形亀之助のこと・「マヴォ」の変転
第五章 広告図案社「オリオン社」
注
戸田達雄略年譜
あとがき
《戸田桂太 著者略歴》
1940年東京都生まれ。
1963年早稲田大学文学部仏文専攻卒業後NHKに入り、ドキュメンタリー番組のカメラマンの仕事を続けた。16ミリフィルムからハイビジョンまで、ということになる。定年退職後、NHK出版で雑誌『放送文化』の編集などに携わる。
2002年から武蔵大学社会学部教授となり、映像論・ドキュメンタリー研究などの授業を受け持ち、学生の映像作品の製作を指導。
2009年定年退職、現在武蔵大学名誉教授。
戸田達雄
1904-1988。群馬県出身の画家・作家。大正期の前衛美術運動グループ「マヴォ」に参加し、大正末期の時代的な気分の横溢した交友の中で「尖端」的な絵や構成作品を制作した。
戸田達雄略年譜 (本書より抜粋)
1904年 前橋市曲輪町(現大手町)で生まれる。翌年、父の出生地新潟県中魚郡橘村(現十日町市川西)に移る。
1913年 一家は群馬県吾妻郡磐島村郷原に転居。
1915年 父、常三死去。前橋市に移る。
1916年 尋常小学校卒業。群馬県立前橋中学校に入学。
1917年 中学を退学。小林富次郎商店ライオン歯磨本舗に職を得る。
1920年 ライオン歯磨広告部画室に配属。先輩画家や文筆家の薫陶を受け、絵や文章の勉強を続ける。
1923年 丸の内ライオン宣伝所の担当となり丸ビルで勤務する。関東大震災が起こる。
1924年 片柳忠男とオリオン社創設、またマヴォに参加。前橋市で戸田達雄、イワノフ・スミヤビッチ、高見沢路直の「マヴォ」展開催。
1929年 オリオン社、恵比寿から銀座に移転。仕事が拡大。
1931年 竹久夢ニの子息竹久不二彦がオリオン社に入社。デザインを担当する。
1935年 オリオン社、株式会社へ。片柳忠男社長、戸田達雄専務取締役。
1941年 戸田達雄絵・文『鳥と巣』(大和書店)出版。
1945年 自宅、オリオン社本社ともに空襲により全焼。終戦。
1947年 子供向け科学絵本や動物、植物の解説書に挿絵を描く仕事を続ける。
1958年 美術団体「日本理科美術協会」の創立メンバーになる。
1965年 美術団体「一線美術会」会員となる。
1970年 オリオン社退職。
1972年『私の過去帖』出版(私家版)。
1988年 ニ月四日死去。享年八十四。
1991年 日本近代文学館、雑誌『マヴォ』全七冊を復刻出版。 |