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BUNSEI SHOIN CO.,LTD

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 遅れが生じますこと、深くお詫び申し上げます。期間中は何かとご迷惑をお掛けいたしますが何卒ご了承の程お願い申し上げます。

古書

映画・紙芝居・絵本/他洋書

児童書の挿絵画家として活躍した人たち


 

19~20世紀にかけて、主にイギリスで活躍した絵本の挿絵画家としては、
エドマンド・デュラックやアーサー・ラッカムなどが特に有名ですが、この時期に活躍したそのほか63名の児童書の挿絵画家についてご紹介をさせて頂きます。この連載は海外古書店等の目録に記述されていたものを引用させて頂きそれらを簡約したものです。この種のものとして平田家就著「イギリス挿絵史」研究社出版などの優れた本がありますが、気楽に読んで頂ければ幸いです。

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◆ 本文中の作者の挿絵本は入手可能な場合がございます。ご照会ください ◆



~~~~ ~~~~ 目次 ~~~~ ~~~~
1:オールディン、セシル・チャールズ・ウィンザー
ALDIN, Cecil Charles Windsor (1870-1935)

2:アップルトン、ホーナー・シャーロット
APPLETON, Honor Charlotte (1879-1951)

3:アーディゾーニ、エドワード・ジェフリー・アーヴィング
ARDIZZONE, Edward Jeffrey Irving (1900-1979)

4:アットウェル、メーベル・ルーシー
ATTWELL, Mabel Lucy (1879-1964)

5:アーサー・ジョセフ ガスキン
GASKIN, Arthur Joseph (1862-1928)

6:エドマンド・デュラック
DULAC, Edmund (1882-1953)

7:ボーデン、エドワード
BAWDEN, Edward (1903-1989)

8:ベイリー、ニコラ
BAYLEY, Nicola (1949-)

9:ベインズ、ポーリーン・ダイアナ
BAYNES, Pauline Diana (1922-2008)

10:コルデコット、ランドルフ
CALDECOTT, Randolf. (1846-1886)

11:ベッティーナ、エールリッヒ
BETTINA, Ehrich (1903-1985)

12:バイロ、バリント・ステファン
BIRO, Balint Stephen (1921-)

13:ブレーク、クエンティン
BLAKE, Quentin (1932-)

14:ブロック、チャールズ・エドモンド
BROCK, Charles Edmund (1870-1938)

15:ブラウン、ゴードン・フレデリック
BROWNE, Gordon Frederick (1858-1932)

16:クラーク、ハリー
CLARKE, Harry (1889-1931)

17:クレーン、ウォルター
CRANE, Walter (1845-1915)

18:クルックシャンク、ジョージ
CRUIKSHANK, George (1792-1878)

19:ディエル、エドワード
DALZIEL, Edward (1817-1905)

20:ディエル、トーマス
DALZIEL, Thomas (1823-1906)

21:ドイル、リチャード
DOYLE, Richard (1824-1883)

22:フォード、ヘンリー・ジャスティス
FORD, Henry Justice (1860-1941)

23:ファーニス、ハリー
FURNISS, Harry (1854-1925)

24:ガフ、フィリップ
GOUGH, Philip (1908-?)

25:グリーナウェイ、ケイト
GREENAWAY, Kate (1846-1901)

26:ヒルダー、ローランド
HILDER, Rowland (1905-1993)

27:ハドソン、グイネズ M
HUDSON, Gwynedd M.(生没年不詳)

28:クロンハイム、ジョセフ・マーティン
KRONHEIM, Joseph Martin (1810-1896)

29:リア、エドワアード
LEAR, Edward. (1812-1888)

30:ル・ケイン、エロール ジョン
LE CAIN, Errol John (1941-1989)

31:ル・メイル、ヘンリエット・ウイルビーク
LE MAIR, Henriette Willebeek (1889-1966)

32:ニールセン、カイ
NIELSEN, Kay (1886-1957)

33:ピーク、マービン・ローレンス
PEAKE, Mervyn Lawrence (1911-1968)

34:プレッチ、オスカー
PLETSCH、 Oscar (1830-1888)

35:ポター、ヘレン・ベアトリクス
POTTER、 Helen Beatrix (1864-1943)

36:ラッカム、アーサー
RACKHAM, Arthur (1867-1939)

37:ロビンソン、チャールス
ROBINSON, Charles (1870-1937)

38:ロビンソン、ウイリアム・ヒース
Robinson, William Heath (1872-1944)

39:ロウントリー、ハリー
ROUNTREE, Harry (1878-1950)

40:サール、ロナルド・ウィリアム・フォーダム
SEARLE, Ronald William Fordham (1920-2011)

41:シェパード、アーネスト・ハワード
SHEPARD, Ernest Howard (1879-1976)

42:タラント、 マーガレット・W
TARRANT, Margarett W. (1888-1959)

43:テニエル、サー・ジョン
TENNIEL, Sir John (1820-1914)

44:ウェイン、 ルイス・ウィリアム
WAIN, Louis William (1860-1939)

45:ウェイア、ハリソン・ウィリアム
WEIR, Harrison William (1824-1906)

46:ホイッスラー、レジナルド・ジョン
WHISTLER, Reginald John (1905-1944)

47:ウッドワード、アリス・ボーリングブローク
WOODWARD, Alice Bolingbroke (1862-1951)

48:ベッドフォード、フランシス・ドンキン
BEDFORD, Francis Donkin (1865-1954)

49:ブルーク、レオナード・レスリー
BROOKE, Leonard Leslie (1862-1940)

50:フリント、ウィリアム・ラッセル
FLINT, William Russell (1880-1969)

51:ゴーブル、ワーイック
GOBLE, Warwick (1862-1943)

52:ハーディ、ダドレイ
HARDY, Dudley (1867-1922)

53:ハッサル、ジョン
HASSALL, John (1868-1948)

54:キーン、ヘンリー
KEEN, Henry (1871-1935)

55:マッケンジー、トーマス
MACKENZIE, Thomas (1887-1944)

56:オア、マンロー・スコット
ORR, Munro Scott (1874-1955)

57:パプ、フランク・チェーン
PAPE, Frank Cheyne (1878-1972)

58:ロバートソン、ウォルフォード・グラハム
ROBERTSON, Walford Graham (1866-1948)

59:トンプソン、ヒュウ
THOMPSON, Hugh (1860-1920)

60:ヒューズ、アーサー
Hughes, Arthur(1832-1915)

61:アンダーソン、アン
Anderson, Anne. (1874-1930)

62:バーカー、シシリー・メアリー
Barker, Cicely Mary (1895-1973)

63:キング、ジェシー・マリオン
King, Jessie Marion (1875-1949)


■1:オールディン、セシル・チャールズ・ウィンザー

ALDIN, Cecil Charles Windsor (1870-1935)

スポーツ画家、滑稽画家として知られています。イーストボーン大学を卒業後、サウスケンジントンで解剖学を、そしてフランク・キャメロンと言う人のもとで動物画を学びました。

サウス・バークシャーのフォックスハウンズでの彼の農民、狩猟向上委員会会員としての生活は、彼に排他的な集団の内部から、馬術の世界のある一面についての面白くて可笑しいイラストを描かせています。彼によって鮮やかに彩色された本や、簡潔に輪郭を描いただけのイラストは、両大戦の間の時期、イギリスのカントリーハウスには必ず所有されていたと言われる程に人気が有った様です。彼の才能は、ある事柄の精神性を紙上に描き出す事にあり、対象の正確さを求める様な作風ではありませんでした。作風としては、後出のランドルフ・コルデコット(1846-1886)に共通するものが有ると言われています。

【Wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Cecil_Aldin

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■2:アップルトン、ホーナー・シャーロット

APPLETON, Honor Charlotte (1879-1951)

少女の頃から水彩画に親しんでいた彼女は、ケンジントン高等学校の美術科で学んだ後、フランク・カルダロンと言う人の動物画講座で修行をし、1901年からはロイヤルアカデミー美術学校で更に研鑽を深めました。1902年の挿絵本第1作に続き1910年にはウィリアム・ブレークのSong of Innocence「無垢の歌」の挿絵を手掛けた彼女は、その後40年に亘り150余の児童書の挿絵を描き続けました。それらは繊細な水彩画であったりモノトーンのペン画とウォッシュ(薄い水彩色の一塗りで着色すること)の組み合わせであったりと、様々な技法が用いられています。

彼女の水彩画を「曖昧ではっきりせず、感傷的に過ぎる」と評し、線描画の方がより魅力的だとする批評家もおりましたが、同時代の他の画家達に較べ、彼女の挿絵は「子ども固有に備わる素直さやあどけなさと言った性質を感傷の中に隠してしまう事無く巧みに表現している」と言う指摘もあり、評価が分かれています。

【Chris Beetles Gallery】http://www.chrisbeetles.com/artists/appleton-honor-1879-1951.html

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■3:アーディゾーニ、エドワード・ジェフリー・アーヴィング

ARDIZZONE, Edward Jeffrey Irving (1900-1979)

ウエストミンスター芸術学校を卒業後、1927年にフリーの画家となり多くの雑誌に絵を描きました。この他、出版社のブックカバーや、ポスター、ワインリストと言ったもの迄手掛けています。1940年から1945年の間、政府認定の戦争画家の仕事につきました。その後、キャンパーウェル美術学校で図画の教師となり、1952-53年にはインドでユネスコの為に仕事をしています。1953年から1961年迄王立美術大学(Royal College of Art)で教鞭をとりました。

1927年に最初の挿絵本を手掛けて以来、彼は線描、水彩などの手法を用いて実に170を超える本の挿絵を描いており、当時最も多忙にして有名な画家のひとりとなりました。彼は、挿絵は単なる視覚的付飾物に過ぎないと言う見解に反論を唱え、挿絵画家は物語の作者の創り出す世界と視覚的に対応するものを描き出す役割を担っており、その絵は物語と密接に関連づけられていなければならないと言う主張と共に、自身は挿絵画家に求められる特殊技能と才能を確信していた人でした。

【Wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_Ardizzone

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■4:アットウェル、メーベル・ルーシー

ATTWELL, Mabel Lucy (1879-1964)

彼女の初期の作品には線描の明快な美しさを追求する為に細部の描写を省いていったジョン・ハッサル、ウイリアム・ニコルソン等の芸術家達の影響が多分に見られます。彼女の最初の挿し絵本は1909年Tuck社から出版されたギフトブックでした。

その後1920年代迄には、彼女の描くずんぐりしたよちよち歩きの幼児の絵が非常に人気を獲ました。これらの絵は本の中だけでは無く、雑誌や彼女自身がデザインしたValentine and Sons社製の絵はがきにも使われる様になりました。彼女の絵は、大人から見た「子ども時代」のイメージ、つまり「汚れを知らない無垢な時代」の理想像の形成に少なからぬ影響を及ぼしただけでなく、当時の子供達の服やヘヤスタイルの流行まで生み出しました。

【Wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Mabel_Lucie_Attwell

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■5:アーサー・ジョセフ ガスキン

GASKIN, Arthur Joseph (1862-1928)

バーミンガム生まれ。1894年には、児童本の挿絵画家ジョージー・イヴリン・ケーヴ・フランスと結婚。ウオルバー・ハンプトン・グラマースクールを卒業後、バーミンガム美術学校へ進み、後にそこで教鞭をとる事になります。ガスキンは、その後ウイリアム・モリスと出会い、アーツ・アンド・クラフツ運動に非常な関心を持ち、ケルムスコット・プレスの影響を強く受けると共に、自らも、このプレスの出版する本の為のデザインをする様になりました。この影響は、彼や彼の生徒達の作品の中にもはっきりと見て取れます。

【文生書院 在庫ございます -ホームページに挿絵画像掲載- 】

アンデルセン「童話集」全2巻 ロンドン 1893年刊 (挿絵:ガスキン)

http://www.bunsei.co.jp/ja/selected-books/ecollection/988-andersen.html

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■6:エドマンド・デュラック

DULAC, Edmund (1882-1953)

フランス、トゥルーズの服地セールスマンの息子として生まれ。トゥルーズ大学では法律を専攻しましたが、その後同地の美術学校に3年間通い、パリのアカデミージュリアンへ進学するための奨学金を得るまでになりました。然し、アカデミー・ジュリアンは彼の気に入らず、3週間でそこを退学しています。親英家で、イギリスの絵本の賛美者であったデュラックは1904年に雑誌Pall Mall Magazineへの投稿を始め、翌1905年イギリスに移住、1912年にはイギリス国籍を取得しました。

この頃彼はHodder and Stoughton社のために贈呈本の制作を手掛けていましたが、同社の協賛による個展も毎年開かれていました。書籍の他にも、彼は油彩の肖像画や似顔絵、服飾デザインに舞台設計〔彼の親友であるイェ―ツの戯曲の為のものもある)、また時には切手、蔵書票、メダル、トランプ、そして紙幣のデザインも手掛けるなど、幅広い分野で多彩な才能を発揮しています。

〔関連在庫 エドマンド・デュラック挿絵本〕
クイラー-クーチ「眠れる森の美女」他選集 1910年刊 (挿絵:デュラック)
ハウスマン「アラビアン・ナイト物語」選集 第2版 1907年刊 (挿絵:デュラック)

エドマンド・デュラック挿絵本

http://www.bunsei.co.jp/ja/selected-books/ecollection/921-dulac.html

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■7:ボーデン、エドワード                      BAWDEN, Edward (1903-1989)

エセックス、ブレインツリーの生まれ。ケンブリッジ美術学校と王立美術大学で学ぶ。特に後者では、20世紀前半のイギリスを代表する具象系の画家ポール・シュの指導を受ける。書籍挿絵の学位を1925年に受けた後、彼は美術工芸学校で更に彫刻と製本技術を学びました。1930年から王立美術大学でグラフィックデザインの非常勤講師の職に就き、後にロイヤルアカデミー美術学校、ゴールドスミス美術学校でも教鞭をとりました。彼は、絵画の様々な技法や印刷技術にも精通した非常に個性的な画家であり、意匠図案家であったと言えます。彼の挿絵は非吸収性紙にペン画と絵の具で描くのが普通でしたが、時には石版印刷やリノリューム印刷、極く稀にはステンシルを用いる事もありました。

【TATE Edward Bawden】http://www.tate.org.uk/art/artists/edward-bawden-707

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■8:ベイリー、ニコラ                              BAYLEY, Nicola (1949-)

現代の挿絵画家として超一流の人気を得ています。彼女はロンドンにある名門の美術学校、セント・マーティン美術学校の生徒時代に制作した作品によって若くして名声を確立した数少ない画家の一人です。多くの図書館員が、彼女の絵本は子供より、むしろ大人受けすると言って非難している様ですが、彼女の才能が稀に見るものであり、その挿絵作品が皆一流である事は否めないものです。

【Art of the Imagination】

http://www.booksillustrated.com/artists-and-sculptors/nicola-bayley/8179

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■9:ベインズ、ポーリーン・ダイアナ    BAYNES, Pauline Diana (1922-2008)

サセックス生まれ。幼少時代をインドで過し、その後ファルナム美術学校と、「石版画家・意匠図案家、彫刻家と製本職人の会(SLADE)」で学びました。1968年A Dictionary of Chivalryの挿絵によってケイト・グリーナウェイ賞を受賞、1971年にも同賞の次点入賞者となっています。彼女の作品は例えばトールキンのFarmer Giles of Ham や Poems and Stories、C.S.ルイスの Chronicle of Narnia(ナルニア国ものがたり)といった作品に出てくる中世の手稿、あるいはメアリ・ノートンのThe Borrowers(床下の小人達)などの多くの児童書に貢献したであろう古典的書籍からの影響を強く感じさせるものが多いです。

【Wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Pauline_Baynes

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■10:コルデコット、ランドルフ           CALDECOTT, Randolf. (1846-1886)

水彩画家・挿絵画家。チェスターで会計士の息子として生まれました。キングススクールで教育を受けた後、ウイットチャーチとマンチェスターで銀行員の職に就きましたが1868-9年に携わった地方情報誌の挿絵画家として成功をします。

彼の更なる出世の願望は1871年にあるスケッチが雑誌 London Society : an illustrated magazine. に掲載された事でやっと叶えられた。これが本当の意味での画家デビューであり、その後10年間にエドモンド・エヴァンス企画の絵本の画家として、ケイト・グリーナウェイに次ぐ人気を博す迄になリました。彼もケイト・グリーナウェイの様に、過ぎし良き時代、特に産業革命以前の18世紀後半の面影を愛し描いた画家でした。

熱心なスポーツマンであった彼の絵の中には、いつも長閑な田園風景の中に建つ荘園の邸宅・狩り・スケートに興じる人々の世界が広がっています。しかし、前途有望な才能は病によって妨げられ療養先のフロリダで若くしてこの世を去りました。

英国王立水彩画機構会員(RI)

【Wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Randolph_Caldecott

【Gutenberg eBook】http://www.gutenberg.org/files/14081/14081-h/14081-h.htm

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■11:ベッティーナ、エールリッヒ             BETTINA, Ehrich (1903-1985)

ウィーンで生まれ育ち、応用芸術学校で学んだ後、ロンドンに渡り、オフセット石版印刷の彩色複製の職に就きました。作家及び挿絵画家として活躍しました。画家・繊維工芸家でもありました。自作の本は、装幀やレイアウト迄常に一貫して手掛ける彼女には、イギリスだけでなく、アメリカ・ドイツ・日本などの出版社からも仕事の依頼があった様です。

【goodreads.com】

http://www.goodreads.com/author/show/5831919.Bettina_Ehrlich

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■12:バイロ、バリント・ステファン          BIRO, Balint Stephen (1921-)

Val Biroの名前で活躍している、ハンガリーのブダペスト生まれの画家です。中央美術学校で学びました。彼が挿絵を手掛けた400冊以上の本のうち、70%近くが児童本です。

ペンと水彩による彼の絵本の挿絵は、その多くが彼自身の個人的経験に基づいて描かれていると言われています。最も良く知られているのは絵本のGumdropシリーズです。彼の作品は、子供っぽいユーモアや劇的感覚に対する深い理解に根ざしたものであり、途切れる事は無く直接的に文章に結びついています。

【Val Biro】http://cunninghamh.tripod.com/books/valbiro/valbiog.htm

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■13:ブレーク、クエンティン                      BLAKE, Quentin (1932-)

ケンブリッジで英語学を学び教師となりましたが、その後聴講生としてチェルシー美術大学のデッサンの講習を受け、1957年からは教師とイラストレーターと言うふたつの顔を併せ持つ様になりました。
その後「PUNCH」誌にもイラストを描く様になり、やがて彼の絵は、風刺画や挿絵だけでなく表紙にも使われる様に大きく進化して行きました。彼が、後に数多く手掛ける事になる児童書の挿絵を描いたのは1960年でした。その挿絵の殆どは子どものためのものでしたが時にはFolio Societyの本の表紙や図版なども描きました。

彼の絵は、ペンとインクを使った流れる様な線画の上に極く薄い水彩色を重ねたものが多く、風刺に富んだと言うよりは、むしろ自由奔放で奇抜な趣の強い作品が多いと言えます。彼は200冊以上の挿絵本を手掛けていますが、最高の栄誉である大英帝国勲章を受賞し、1988年には王立芸術アカデミー上級研究員にも選出されています。

【quentinblake.com】http://www.quentinblake.com/en/

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■14:ブロック、チャールズ・エドモンド

BROCK, Charles Edmund (1870-1938)

ケンブリッジで育ち、彫刻家ヘンリー・ワイズのもとで修行をしました。21歳の時には既に書籍・雑誌の挿絵画家として活躍していました。彼の初期の画風には、ヴィクトリア朝時代の中で人気のあったイラストレーターのヒュー・トンプソン(1860-1920)の影響が見られます。

弟のヘンリー・マシュー・ブロックと共同で工房を持ち、そこで時代がかった挿絵を描く時の為の小道具として使う古風な家具や服飾品等を収集していました。その為か、この兄弟の挿絵には似通ったところがありますが、チャールズの作品のほうが優美で落ち着きが感じられると言われています。彼は、挿絵の他に肖像画や風俗画も手掛けていました。

英国王立水彩画協会会員

【Wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/C._E._Brock

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■15:ブラウン、ゴードン・フレデリック

BROWNE, Gordon Frederick (1858-1932)

チャールズ・ディケンズの作品の挿絵で有名な「フィズ:Phiz」ことHablot K.Browneの息子。個人教育を受けた後、ハザレーズ美術学校で学び、父親の後を追って挿絵画家となりました。

1880年頃より彼は多くの少年向けの物語や童話、一般小説などに挿絵を描きましたが父親の名声を超える事は出来なかった様です。それは、父親の様に共作関係を継続できる作家が一人も居なかったのが主な原因と言われています。

彼は所謂、編集者受けのする画家であったことは確かな様ですが、彼の描く登場人物が、作家が違っても似たり寄ったりの外見だった〔例えば、サー・ウオルター・ベサント(1836-1901)やジョージ・アルフレッド・ヘンディ(1833-1902)の作品の挿絵〕為に、作品の単調で非難を受ける事があったと言われています。

英国王立水彩画協会会員

【Wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Gordon_Browne

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■16:クラーク、ハリー                        CLARKE, Harry (1889-1931)

怪奇趣味に近い絵を書く、余り知られていないアイルランド人画家で、アール・ヌーヴォーの影響を強く受けた芸術家でした。1900年代初期には、熱心に幻想的なイラストの制作に従事していました。それがやがて高い評価を受ける様になり、又、ステンドグラスのデザインで三個の賞を授賞するに至り、エドガー・アラン・ポーの推理小説や幻想小説、ゲーテの「ファウスト」、そしてアンデルセンやペローの童話集の挿絵を依頼される様になりました。

唯、不幸な事に彼はこれら以外には殆ど挿絵の制作はしておらず、肺結核の為に42歳の若さでスイスで亡くなりました。彼の作品はビアズリーの強い影響と共に、カイ・ニールセン的な完成された構図と象徴への傾倒が見られる質の高いものと言えます。又、時として中世の彩飾を思わせる様な極めて複雑な図案や文様で絵を取り囲む事をしていますが、それらが融合して奇怪な世界を形成していると言えるでしょう。

【JVJ Publishing ILLUSTRATORS】http://www.bpib.com/illustrat/clarke.htm

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■17:クレーン、ウォルター                    CRANE, Walter (1845-1915)

画家、意匠図案家、挿絵画家として高い評価を受けています。リバプール生まれ。1857年家族と共にロンドンに移り、1859年に著名な彫刻家 W.J.Linton のもとに見習いとして迎えられる迄、独学で美術を学びました。その技術的経験をもとにクレーンは、同時代の誰よりも書物という芸術において優れた腕前を発揮したと言えます。

彼は、単に「挿絵も手掛ける画家」では無く、真に挿絵画家として優れた才能に恵まれていました。初期の印刷本や中世の彩飾本、日本の版画技術、ラファエロ前派の作品等も精力的に研究し、自らの図案の中にそれらの意匠を取り入れました。クレーンが児童書に描いた絵の、くっきりとした輪郭と単調な色彩、黒のベタ塗りと言った個性的な特徴は、多色刷り木版画やエドモンド・エヴァンスが企画し、ラウトレッジ社が出版した絵本には正に理想的であり、それらによって彼の名は益々有名になったのでした。

1867年からは, ディケンズの作品の挿絵を描いた事で知られるトーマス・ボルトン・ダルツィール(1823ー1906)と共同して仕事をしました。1871年から結婚後の数年の間、イタリア、ギリシャ、ボヘミア、アメリカ等を旅しています。1871年のパリ・コミューンの誕生が彼に強い影響を与え、後にウイリアム・モリス等と共に社会主義運動に傾倒して行く要因となりました。

英国王立水彩画協会会員(RWS)

【Wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Walter_Crane

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■18:クルックシャンク、ジョージ         CRUIKSHANK, George (1792-1878)

1830年代迄は時代を代表する挿絵画家として活躍し、チャールズ・ディケンズやハリソン・エインズワース、ウォルター・スコットの小説の挿絵等で良く知られていました。1835年から53年迄、ジェームズ・ヘンリー・ヴィゼテリーと共に年鑑The Comic Almanackを刊行しました〔本の友社がリプリントを出版しています〕。これは後に出版する雑誌George Cruikshank Magazineの全身でもありましたが、残念乍らこの雑誌は、1854年の1、2月号で廃刊となっています。

ジョン・ラスキンが手放しに賞賛をした彼の絵は、その線の強さ、芝居がかったユーモア等からして、むしろ18世紀的雰囲気を備えた作品と言えましょう。

【Wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/George_Cruikshank

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■19:ディエル、エドワード                DALZIEL, Edward (1817-1905)

木版画家、挿絵作家。ディエル3兄弟の一人。兄George Dalziel (1815-1902)と弟Thomas Dalziel (1823-1906)も共に挿絵画家として活躍しました。

エドワードは商売の余暇に美術を学んでおりましたが、1839年には、兄ジョージと共にロンドンに設立したヴィクトリア朝の彫刻を扱う生産性の高い会社で木版画家として身を立て、その後50年に渉りディエル(兄弟)社の一員として活躍しました。

彼は、兄弟のうちでも最も熱心に本の挿絵の仕事をしたそうです。クリプストン・ストリート・アカデミーで、チャールズ・キーンやジョン・テニエル卿のもとで絵画を学び、ロイヤル・アカデミーに入選した事もありました。息子(長男)のエドワード・ガートン(1849-1889)も父親の才能を受け画家となりました。

【Wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Brothers_Dalziel

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■20:ディエル、トーマス                    DALZIEL, Thomas (1823-1906)

1860年に兄達の設立した会社に入りました。素描画家としては兄弟の中で唯一成功しました。工芸家としても兄のエドワードよりも高い評価を受けており、ディエル社が手掛けた多くの本の制作に貢献しました。彼は、又一流の風景画家でもあり、彼の手掛けた傑作のひとつに Dalziel’s Arabian Night〔ディエル版アラビアンナイト〕があります。

【Wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Brothers_Dalziel

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■21:ドイル、リチャード                     DOYLE, Richard (1824-1883)

滑稽画家、漫画家、妖精画家。彼は、非常に芸術的天分に恵まれた家系の中でも、ひときわ資質溢れる芸術家であり、早くから少年向けの小説の挿絵等を描き始めました。

1840年に初めて出版した、中世を題材にした漫画、The Eglinton Tournamentで早くも高い評価を受けました。同年にジョン・リーチと組んで、彼の小説Hector O’ Halloran の挿絵を手掛け、それがきっかけとなりディケンズやサッカレーの挿絵の仕事が続きました。

1843年、ドイルは「パンチ」誌に紹介され、直ぐにその装飾やイニシャル文字のデザイン、後には諷刺画等も担当する様になりました。「パンチ」誌の第6号(1844年)の表紙のデザインは良く知られています。19世紀半ば迄には、彼はその人気シリーズManners and Custome of Ye Englisheで、正に国民的人気を博し、才能ある木彫画家としての地位を確立しました。

彼の持つ喜劇的センスの源は、その多くが幼少時に親しんだ本にあり、伝説物語や騎士物語などが彼に沢山のアイデアを与え、純粋でナイーヴな絵を生み出させたと伝えられています。ドイルのその様な陰りの無い、素直で純粋な想像力は、ホールマン・ハントやラスキンにも支持され、自らの作品の挿絵画家として指名するほどでした。

1850年に、「パンチ」誌を離れたドイルは、挿絵画家と言う職業に残りの人生を賭け、特に熱心に子供のための絵本や妖精ものを手掛けましたが、そのうちに思いがけなくも奇怪趣味的その 表現の才能を自覚して、躍動的で不思議な色彩に溢れた作品を多く制作する様になります。彼の代表作は、1870年に出版したIn Fairyland〔妖精の国で〕でしょう。

【Wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Doyle_%28illustrator%29

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■22:フォード、ヘンリー・ジャスティス   FORD, Henry Justice (1860-1941)

フォードは、アンドリュー・ラングによる12冊の多色刷り童話集によって良く知られています。童話への関心が次第に低下して行く時代の風潮の中にあって、この童話集は、数多くの様々な種類の物語を、古今東西・有名無名を問わず紹介すると言う画期的なものでしたが、その人気の一因がその本の「見た目」の美しさにあった事は確かです。

彼は、この他にもラングの伝説や歴史を扱った13の物語に挿絵を描いています。彼の挿絵には、細部の描写や鮮やかな色遣いへの拘りにより、多色刷りの場合には特にラファエル前派の影響が見受けられます。然し、ハーフ・トーンによる複製本では、それらの効果が十二分に表現出来て居ないものが多い様です。

【Wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Justice_Ford

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■23:ファーニス、ハリー                      FURNISS, Harry (1854-1925)

アイルランド生まれ。ロイヤル・ハイバーニアン・アカデミー・スクールで学ぶ。1873年にロンドンに渡り、雑誌のグラフィック・デザイナーとして自立しました。

1880年からは「パンチ」誌に連載を始めますが、主に政治諷刺漫画欄の専属担当者として活躍しました。この時期の彼の作品の多くは高い評価を得ています。彼は稀に見る多作家であり、動きや表情の特徴を捉えるのが巧みで、時代や世論への鋭い観察眼を備えておりました。

【Wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Harry_Furniss

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■24:ガフ、フィリップ                            GOUGH, Philip (1908-?)

リバプール美術学校で舞台美術学んだ後、商業スタジオに入り、2年間ロンドンの劇場の25に及ぶ制作会社の為に大小の道具や、衣装のデザインを担当しました。第2次世界大戦後、彼は装飾挿絵本の図版や表紙の仕事に携わる様になり、レックス・ホイッスラーを髣髴とさせる様な画風の作品を発表しました。それらの絵の中には、彼の18、19世紀初期の建築、装飾、家具についての深い造詣が良く表れています。

【laurenharman.com】http://www.laurenharman.com/alice/illust/gough.html

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■25:グリーナウェイ、ケイト                 GREENAWAY, Kate (1846-1901)

水彩画家、挿絵画家。絵入新聞Illustrated London Newsの版画家であったジョン・グリーナウェイの娘であり、芸術家のRichard Dadd, Frank Daddは従兄弟にあたります。

ハザレーズのイズリングトン校で美術を学び、SLADE(石版画家・意匠図案家・彫刻家・製本職人の会)でレグロス(Legros)の指導を受けました。1877年からはロイヤル・アカデミーに出展を始めています。その頃、彼女の非凡な才能をいち早く見抜いた印刷・出版業者のエドマンド・エヴァンスの仕事を請け負う様になり、魅力溢れる光景を載せた多数の児童書が出版されます。

彼女の絵画には、尊敬していたストザードの影響が少し感じられますが、何よりも子供の様な純真さや愛らしさ、そして彼女自身の豊かな才能はヴィクトリア朝の人々に共感を持って受け入れられました。ジョン・ラスキンは彼女の作品の愛好者で多少の不満を持っていたものの激励を惜しまなかったと伝えられています。彼女の絵のスタイルは、多くの模倣者を生み出した絵本の世界だけではなく、服装や、その他の装飾品などの世界にも影響を与えました。彼女の絵の輪郭を成す精確で影の無いペン画は、平凡ではあるものの非常に魅力的です。彼女の水彩画は、実際にはペン画の上を淡い色で軽くウオッシュを重ねているものです。

彼女の絵本がずっと愛され続け、現代でも受け入れられている理由は、彼女が読者である子供達に可愛い服を来て遊んでいる子供達の姿を見せた最初の挿絵画家であったからです。

王立水彩画家機構会員(RI)

【Wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Kate_Greenaway

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■26:ヒルダー、ローランド                   HILDER, Rowland (1905-1993)

海景画家(Marine Painter)を志し、ゴールドスミス美術大学に学びました。魅力的な田園風景、特に冬景色を描く版画家、画家として人気を博しました。

彼の挿絵は変化に富むもので、メルヴィルのMoby Dick(白鯨)やスティーブンソンのTreasure Island(宝島)、またパーシー・ウェスターマンの9つの少年向け航海物語等の為に生き生きとした絵を描いています。

王立水彩画家機構会員(RI)

【Wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Rowland_Hilder

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■27:ハドソン、グイネズ M             HUDSON, Gwynedd M.(生没年不詳)

ブライトン美術学校で学び、装飾文様、挿絵、ポスター等の仕事を手掛けました。彼女の最も有名な作品は、1922年発行の「不思議の国のアリス」です。1910年から1935年が最も活躍した時期でした。

【Dave Neal’s Home Page】http://www.exit109.com/~dnn/alice/hudson/

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■28:

クロンハイム、ジョセフ・マーティン   KRONHEIM, Joseph Martin (1810-1896)

レイトン、ジョージ・カーギル        LEIGHTON, George Cargill (1826-1895)

この二つの偉大な名前は、1850年頃から児童本の多色刷り図版の世界に現れます。カラー図版の需要が高まるにつれて、銅版で背景をとり、その上に色付きの絵木版で重ね印刷をするなどの数々の印刷技法の併用が一般化されて行きましたが、二人の工房は、主に木版を使った印刷に固執していました。

特にクロンハイムは、バクスターが特許を取得した方法を使用してではありましたが、木版を石版印刷と併用して数多くの図版をToy Bookの出版社であるラウトレッジやフレデリック・ウォーン社に提供しました。

レイトンもバクスター製法を応用した方法を用いて『レイトン兄弟』の名前で沢山のトイ・ブックを手掛けました。

【Wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Martin_Kronheim

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■29:リア、エドワアード                       LEAR, Edward. (1812-1888)

地形画家、鳥類学者、滑稽画家。15才の頃には既に鳥類画を描いて生計を立てて居ました。

1831年に、動物協会の庭園の絵描きとなり、翌年には処女出版で鸚鵡のカラー図版集を発表しています。1832ー36年には、ノーズレーのダービー伯爵の子息の絵の教師として雇われ、そこで油絵を描いたり、子ども達の為にThe Book of Nonsense「ナンセンスの絵本」を作ったりもしました。

その頃から、精力的に国外を旅する様になり、旅行先でのスケッチを纏めてはリトグラフの画集を発表しています。純粋な水彩画よりもインクを使ったペン画とウオッシュの組み合わせを多用したリアの作品は、ヴィクトリア朝の規範からすると可成り常軌を逸したものであったかも知れません。

【Wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_Lear

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■30:ル・ケイン、エロール ジョン       LE CAIN, Errol John (1941-1989)

シンガポールで生まれ、そこで教育を受けましたが、正式な美術の訓練は受けていません。5年間程インドに住みながら極東地域を精力的に旅して周り、その後イギリスに渡って、広告会社や映画製作会社で働きました。

1968年に最初の絵本King Arthur’s Swordを出版し、挿絵画家としてのスタートを切りました。彼は、この最初の本により児童本の挿絵についての展望と可能性を悟った様です。彼によれば挿絵画家の本質的な役割は、物語の作者とそのストーリーに完全共感した立場に立つと言うことであり、画家としての技量がどんなに優れていようと、その絵が物語の展開、雰囲気に逆らって仕舞うものである限り絵本としては成功し得ないと言うものでした。

彼の最も特徴的な作品はCinderella「シンデレラ」(1972年刊)やThe Twelve Dancing Princess「12人の踊るお姫様」など、古典的ストーリーに付けられた挿絵に見る事が出来ます。

彼の挿絵は細部の描写力に優れ、色彩の鮮やかなものが多く、素朴な雰囲気や感情を表現するかの様なページ装飾が付けられています。1895年、ル・ケインはケイト・グリーナウェイ賞を受賞しています。

【エロール・ル・カイン ほるぷ出版】http://www.holp-pub.co.jp/rukain.html

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■31:ル・メイル、ヘンリエット・ウイルビーク

LE MAIR, Henriette Willebeek (1889-1966) ファン・ゼロースケルケン男爵夫人

オランダの図案家、挿絵画家。自らも芸術家であり、同時に芸術家の擁護者でもあった裕福な家庭に生まれました。年少の頃からフランスの図版画家モーリス・ブーテ・ド・モンベルの影響を受け、彼の助言でロッテルダム・アカデミーで、1908-11年の間、絵画を学びました。

1911年から、ロンドンの出版社との関係を広め、1920-30年代の間、イギリスで児童書の挿絵画家として人気を博しました。彼女のスタイルは、平面的な描写と押さえた色調、そして装飾性豊かな縁取りに特徴があります。

【nocloo.com】

http://www.nocloo.com/gallery2/v/willebeek-le-mair-old-nursery-rhymes/

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■32:ニールセン、カイ                          NIELSEN, Kay (1886-1957)

図版画家、舞台芸術家。コペンハーゲンに生まれる。1904年から1911年の間、パリのジュリアンやコラロッシュで学ぶ様になる前は、L.フィンドの学生でした。

1911年から1916年迄、彼はロンドンで仕事をしていますが、この時期は彼が最も集中的に制作に当たった時期であり、オーブリー・ビアズリーに非常に強く感化された時期でもありました。ニールセンは非凡な色彩感覚の持ち主で、高度に装飾性の強い絵を描きますがフリーズの様な文様パターンと組み合わされた作品はペルシャや中東の図案に近いものがあります。

彼は、その後渡米して仕事をしますが、成功に至らず貧困のうちに没して仕舞います。

【wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Kay_Nielsen

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■33:ピーク、マービン・ローレンス    PEAKE, Mervyn Lawrence (1911-1968)

中国のKuling(盧山)生まれ。天津グラマー・スクールで教育を受けた後、家族と共にイギリスに渡り、クロイドン美術学校、ロイヤル・アカデミーで学びました。1931年に、ロイヤル・アカデミーで最初で最後の作品展示を果たし、その後、チャンネル諸島のサークに移り、画業と文筆業に専念しました。

そこで現代のゴシック派小説Titus 3部作で、大西洋の両側に熱狂的なファンを獲得しますが、12年余に渉りパーキンソン病に悩まされ、画業の継続に困難を来す様になりました。

彼の挿絵は、不気味でグロテスクでさえありますが、同時にユーモラスな感覚も備えており、幻想的主題や光景を巧みに表現しています。

【the official site】http://www.mervynpeake.org/

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■34:プレッチ、オスカー                     PLETSCH、 Oscar (1830-1888)

オスカー・プレッチはベルリンの生まれ。1850年代後半に宗教関係の本の出版社で働く為にドレスデンに移りました。そこではクリスマスやイースターのプレゼント用の本や、復活祭向けの本、聖典に出てくる天使の物語等に挿絵を描く仕事をしていました。

1860年に、ハンブルグの出版社から「子ども部屋」Die Kinderstube と言う本に挿絵を描く依頼が来ました。この本には36枚の挿絵を描きましたが、これが彼の初めての児童書へ貢献となりました。

同時代の多くのドイツ人図版画家と同様に、彼もまた、ドイツのケイト・グリーナウエイとして知られるルードウイッヒ・リヒターの影響を強く受けていますが、リヒターとは異なり、彼は彩色技術を容易に取り入れ、それにより作品をより生き生きとしたものにする事に成功しました。

プレッチの作品はイギリスに於いても愛好され、高く評価されました。彼の最も愛らしい本のひとつはレイトン兄弟の著作であるSchnick-Schnack で、素晴らしい挿絵が付いています。又、プレッチとリヒターによる挿絵の付いた英語版の優れた絵本Little Folksがありますが、これは有名な年鑑の方ではありません。彼の、モノトーンで刷られた子どものためのアルファベット教材Little Lily’s Alphabet は彼の60年代の作品の典型的な例であると言って良いものです。

【wikipedia】http://de.wikipedia.org/wiki/Oscar_Pletsch

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■35:ポター、ヘレン・ベアトリクス    POTTER、 Helen Beatrix (1864-1943)

ロンドンのケンジントンに生まれ、家庭で教育を受けました。孤独で内向的な子どもであった彼女にとっては、鉛筆と絵の具箱が主な遊び道具であり、鼠、兎、針鼠など彼女のペット達の精密なスケッチや、サウスケンジントンにある自然史、博物館の展示物からの習作がこの頃の彼女のノートを埋めています。又、スコットランドや湖水地方で過す休暇が、彼女に田園地帯への終生変わらぬ憧憬や強烈な印象を与え、それらは後年、驚異的な視覚的記憶力をもって想いだされ作品の制作に使われています。

彼女の最初の本Peter Rabbitは、1893年に一人の子どもに宛てて書いた一通の手紙から生み出されています。1901年に私家版が発行され、翌年Warne 社から初版が出版された後、20を超える他の出版社から刊行され続けています。

この小さな絵本では、簡潔な文章のページが、繊細であり乍ら、鋭い観察眼を持って描かれた水彩画による小さな図版と向き合って並んでいます。のどかな北の国にいる、几帳面に描写された動物たち(人間的な振る舞いをしてはいるものの、本物の動物である)は、既にイギリスの民間伝承的存在であるとさえ言う事が出来るでしょう。

〔関連書籍 在庫 Cotsen Children’s Library〕

Cotsen Children’s Library

【wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Beatrix_Potter

【大東文化大学ビアトリクス・ポター資料館】http://www.daito.ac.jp/potter/

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■36: ラッカム、アーサー                     RACKHAM, Arthur (1867-1939)

挿絵画家、水彩画家。恐らく、20世紀初頭で最も有名で、且つ、最も愛された画家でしょう。
彼は、シティ・オブ・ロンドンスクールで教育を受けた後、ランベススクールで美術を学びました。そこで、同級であったシャルル・リシュの影響を受けています。彼は、1892年に The Westminster Budget 誌のスタッフとなって以来、本の挿絵、特に神秘的、幻想的な性質の本の挿絵を描く事に専念する様になりました。直ぐに、エドワード調の前途有望な挿絵画家と見なされる様になった彼は、1900年代初頭、カラー印刷によって、極く薄い微妙な色合いや、抑えた色調を用いて彼の作品の持つ無限性を上手く表現する事で、更に大きな名声を得る様になりました。

彼の想像力に富む眼は、子どもの様にあらゆるものを捉え、安心感と恐怖心が入り交じった様な世界を創り出して行ったのです。彼の発想の原点には、明らかにヴィクトリア調の画家達、クルックシャンクやドイル、ホートン、ビアズリー等の作品が有りますが、それと共に、デューラーやアルドルファーの版画からも影響を受けていると言えます。

【wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Arthur_Rackham

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■37:ロビンソン、チャールス        ROBINSON, Charles (1870-1937)

水彩画家、装飾家。1870年10月20日、ロンドンで木彫家トーマス・ロビンソンの次男として生まれました。イズリントン高等学校とハイビュリー美術学校で教育を受けましたが、1892年に経済的理由からロイヤル・アカデミー校で学ぶ事が出来なくなりました。

その後、Waterlow & Son社に石版画家として迎えられますが、1895年に彼の素描が The Studio誌に掲載され、続いてロバート・ルイス・スティーブンソンのA Child’s Garden of Verses の為のデザインを依頼されるに至って、社内での地位を高めました。彼の兄トマスと弟のウイリアムスも画家であり、共にエドワード調のモノトーン版画家として人気を得ました。

彼の絵の様式や特徴は、精密に描かれた文様パターンの枠に囲まれている、非常に装飾性が豊かで幻想的な光景の連続や、子ども特有の無邪気さや純真さが良く表れた子どもの顔かたちにあります。そこには、デューラーの版画や、ラファエロ前派の影響が見られますし、空間の使用には日本の版画を想わせるものも有りますが、彼が模倣者であると言う事は出来ません。

その色違いや幻想性には、しばしば正式な美術の訓練を受けていないが故に生み出される独創性が見られます。1932年、彼はロンドン・スケッチ・クラブの会長そして英国王立水彩画機構会員(RI)に選出されました。

【feuilleton】http://www.johncoulthart.com/feuilleton/tag/charles-robinson/

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■38: ロビンソン、ウイリアム・ヒース Robinson, William Heath (1872-1944)

トマス・ロビンソン、チャールズ・ロビンソン兄弟の三番目として生まれる。最初風景画家を目指しましたが、直ぐに挿絵に転向し、1900年に「エドガー・アラン・ポー詩集」の挿絵で成功を収めました。引き続き、他の沢山の本の挿絵を手掛けて行きますが、その中には彼自身の書いた物語2作、The Adventures of Uncle Lubin(1902年)、Bill the Minder (1912年)も含まれています。
その他、1914年迄の間に多くの雑誌にユーモラスな絵を寄稿しています。又、第一次世界大戦中には、当時の代表的な漫画家として活躍し、彼の名前が英語としてdotty (珍奇)とか、一時凌ぎのくだらない仕掛け“makeshift contraptions”といった言葉と同義に使用される程でした。

機械技術全盛時代を風刺する漫画家として、彼は20世紀の技術に対する過剰な夢想を、木材と釘と針金で作る便利屋の発明品などと茶化したりしたのです。多彩に活躍したヒースは兄のチャールズ同様、書籍の装幀やレイアウトにも稀な才能を持っていました。

【wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/W._Heath_Robinson

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■39:ロウントリー、ハリー                   ROUNTREE, Harry (1878-1950)

ニュージーランド、オークランド生まれ。石版画家として商業スタジオで働いていましたが、イギリスの書籍挿絵に魅了されて、1910年にロンドンに渡ります。雑誌 Little Folksの編集者S.H.Hamerにその作品を認められて、雑誌ばかりでなく書籍の仕事にも携わる様になります。やがて、鋭い観察力で、細部迄をユーモラスに描き上げた動物の絵で知られる様になります。その独特の作風は、描写の密集した濃い陰の部分と、漂白された様な真っ白な光の空間の対称が強烈な画像をつくりあげており、どことなく世紀末的な雰囲気を漂わせています。

挿絵画家としての名声・人気とは裏腹に、彼はコーンウオールのセント・アイヴスで貧困のうちに世を去りました。セント・アイヴスの港の桟橋には、彼を記念したプレートが飾られています。

【wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Harry_Rountree

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■40:サール、ロナルド・ウィリアム・フォーダム

SEARLE, Ronald William Fordham (1920-2011)

ケンブリッジ美術学校で学ぶ。彼の1935-39年頃の漫画は、Cambridge Daily NewsとGrantaに見られますが、その後には「パンチ(Punch)」「リリパット(Lilliput)」にも多くの漫画を載せています。

彼が「パンチ」の演劇欄の挿絵を担当する様になる頃には、既に“セント・トリニアンの性悪女学生”を主人公にした連載(1941-1953年)で世間に良く知られた存在になっていましたし、長年に亘って風刺画を発表し続けていました。この後に、彼は漫画を手掛け始めますが、中には1954年に始まったThe Rake’s Progressの様に非常に人気を博したものも有ります。

彼は、数多くの挿絵を描き、誰にでも喜ばれる様な、可愛らしく洒落た猫等の動物の絵本も作っています。挿絵画家で有ると同時に、石版画家・銅版画家あった彼はアメリカやヨーロッパの多くの都市で沢山の個展を開きました。本質的に風刺画家である彼の作品は、洗練されたユーモアのセンスと深い洞察力に裏付けられています。

【wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Ronald_Searle

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■41:シェパード、アーネスト・ハワード SHEPARD, Ernest Howard (1879-1976)

ロンドンに建築家の子として生まれる。セントポールスクールで教育を受け、1896年から1902年迄、ハザーレイ美術学校と王立アカデミースクールで、二つの奨学金を得ました。1907年にふたつの作品が「パンチ」に紹介されたのをきっかけに、彼の50年に亘る同誌との関係が始まります。

シェパードの名前は、A.A.ミルンの、くまのプーさんやイーヨー、ケネス・グラハムのひきがえる、穴熊針鼠といった動物達と切り離して語る事は出来ません。彼のペンとインクで生み出されるイラストは、その登場するキャラクターに生命を吹き込み、生き生きと視覚化させて見せています。

シェパードは、精神的抑制を持って、自分自身をペンという頑固な道具の支配に服従させたヒュー・トンプソンの主張の、唯一の継承者でもありました。彼とミルンの理想的な関係や、Wind in the Willow「楽しい川辺」の不朽の名イラストレーションを別にしても、彼は数少ない、完璧な挿絵本Everybody’s Pepysを作った事だけで、充分記憶されるに値するものが有ります。

彼は、恐らくテニエル以降、最も愛された児童本の挿絵画家でした。ベヴィス・ヒアリー(Bevis Hillier)は、The Work of E.H.Shepard (Rawle Knox 編・Methuen1979年刊)の中で、彼を完璧な挿絵画家であり、決して自分の考えを押しつけようとはしなかった。物語を絵に訳出したのであり、変形をする事は無かったと書いています。

シェパードは、1972年に大英帝国勲章(OBE)を受勲しています。1976年3月24日逝去。

【wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/E._H._Shepard

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■42:タラント、 マーガレット・W      TARRANT, Margarett W. (1888-1959)

芸術家パーシー・タラントの娘。クラパム美術学校とハザレース美術学校で学ぶ。彼女は最初の仕事を、カレンダーやグリーティングカードのデザインから始めていますが、これらは殆どがメディチ協会の為の仕事でした。

モノトーン、多色刷りの両方で制作された彼女の挿絵の作品は、簡潔で、素朴な味わいがあり、1920-30年代には非常に人気がありました。これらは、今日でもコレクターズ・アイテムとして高い評価を受けています。

【wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Margaret_Tarrant

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■43:テニエル、サー・ジョン               TENNIEL, Sir John (1820-1914)

風刺画家、挿絵画家。1820年ロンドンに生まれ、ロイヤル・アカデミー美術学校、クリプストン・ストリート・ライフアカデミーで学びました。1840年代に入り、早くも動物の絵で有名になります。

1848年に出版された、彼の挿絵によるイソップ物語が、「パンチ」のマーク・レモンの目に止まり、1851年からは同誌の次席風刺画家として活躍する様になり、1864年には主席に格上げされています。彼は、この雑誌との凡そ半世紀に亘る仕事の中で、実に2000を超える作品を描いたと言われています。優れたファンタジー画家でもあった彼に絶好の仕事の機会が訪れたのは、1865年、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」の為の挿絵を依頼された時のことでした。これは、物語の原作者と挿絵画家の稀に見る程の理想的組み合わせであったとも言えます。

1872年、「不思議の国のアリス」の続編として出版された「鏡の国のアリス」にも、彼が挿絵を描きました。1892年に、テニエルはナイトに叙せられています。

【wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/John_Tenniel

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■44:ウェイン、 ルイス・ウィリアム     WAIN, Louis William (1860-1939)

動物漫画家、挿絵画家。クリスチャン・ブラザースで教育を受けた後、1879年迄は音楽の教育を受けていました。その後、1877-1880年迄ウェストロンドン美術学校に学び、1881年からは、そこで教授助手を勤めました。

1882年に、絵入り新聞Illustrated Sporting and Dramatic Newsのスタッフとなり、その頃から猫の絵を描き始めます。それ迄描かれる事の無かった人間世界の様な状況に置かれ、ユーモラスな仕草をする猫達の姿を、非常に美しく巧みに表現しました。

その猫への異常な迄の傾倒の所為か、やがて彼は精神に異常を来たし、最後には貧困の中でこの世を去りました。

【wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Louis_Wain

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■45:ウェイア、ハリソン・ウィリアム  WEIR, Harrison William (1824-1906)

動物画家、挿絵画家。 キャンパーウェルで教育を受けた後、ジョージ・バクスターについて多色刷りの印刷技法を学びました。しかし、印刷よりも画業を好み、早くから鳥や他の動物の習作に専念する様になりました。

友達にチャールズ・ダーウィンが居たり、鳩を飼う趣味が有ったりと、彼は博物学にも造詣が深かった様です。

ウェイアは、ヴィクトリア朝期の人としては稀なくらいに野鳥や家禽を愛し、極端な程描写の精確さと、その絵の登場キャラクターの生命感を追求した画家でした。

【wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Harrison_Weir

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■46:ホイッスラー、レジナルド・ジョン

WHISTLER, Reginald John (1905-1944)

通称レックス(Rex)。ハイリーベリーで教育を受け、1922年から26年迄ロイヤル・アカデミー美術学校で学んだ後、「石版画家・意匠図案家・彫刻家・製本職人の会(SLADE)」に入会しています。

彼は、微妙な色彩の油絵と、書籍挿絵という二つの全く異なった分野で活躍しました。彼の挿絵の作風は、装飾過剰なバロック調の縁飾りに囲まれた18世紀を髣髴とさせる様なものでした。

中でも、Gulliver’s Travels「ガリヴァー旅行記」(1930年刊)の挿絵が最高傑作でしょう。この本の挿絵は、一見すると銅板印刷の様に見えながら、実際にはグラビア印刷で複製されたペン画であり、古い木版の様に色褪せたセピア色で刷った上に手彩色施すという念の入ったものです。

挿絵の他に、彼は多くの本の表紙のデザインを手掛たり、また当時、時代の先端を行っていたブルームスベリーの芸術家集団とも交流があるなど、多彩な活動をしていました。残念ながら、彼は、第二次世界大戦中のノルマンディーで、事故に遭い39才の若さで亡くなっています。

【wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Rex_Whistler

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■47:ウッドワード、アリス・ボーリングブローク

WOODWARD, Alice Bolingbroke (1862-1951)

ロンドンのチェルシー生まれ。児童本の挿絵画家。主に、ペンと水彩を用いて制作していましたが、その他にも鉛筆で描く事もありました。彼女の図案は、どことなくラッカムを思わせる所が有りますが、ラッカムの様な邪悪さを表す様な要素、雰囲気作りの才には欠けていた様です。

然し、彼女の作品は、The Studio誌で大いに賞賛されています。彼女が最も活躍したのは1885年から1920年でした。

【wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Alice_B._Woodward

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■48:ベッドフォード、フランシス・ドンキン

BEDFORD, Francis Donkin (1865-1954)

ベッドフォードは、児童書の挿し絵画家としては多作な画家でした。モノクロ版とフルカラーの両方の作品を残しています。また、新しく開発された4色のプロセスを活用した最初のアーティストの一人でもありました。彼の絵の設定は明らかに建築家であった時の経験を反映しています。

【wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Donkin_Bedford

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■49:ブルーク、レオナード・レスリー  BROOKE, Leonard Leslie (1862-1940)

ブルークは、バーケンヘッド生まれのアーティストで作家でもあった人。イタリアへの旅行の際に、部分的難聴の原因となった重度の腸チフスに感染しました。そのために彼は大学への進学を諦め、バーケンヘッド美術学校への入学を選びました。のち、セントジョンズ・ウッド美術学校に進み、更に王立美術アカデミーに入り、1888年にアーミテージ勲章を受賞しました。

彼の特長は、ペンとインク線画や水彩を使って、本や本の表紙を描くことでした。彼の一大転機となったのは、1891年に当時マクミラン社から刊行されていたモールズワーズ女史の“ヴィクトリア朝期の児童のための小説”の挿し絵画家として活躍していたウォルター・クレインの後を引き継いだことでした。

更にアンドリュー・ラングの童謡絵本に描いた巧みなウイットの富んだ挿絵が、イラストレーターとしての彼の評価を確立しました。彼は、更にジョニー・クロウ本や多くのおとぎ話や童謡の本を描き子ども達の人気を得ました。

【wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Leonard_Leslie_Brooke

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■50:フリント、ウィリアム・ラッセル  FLINT, William Russell (1880-1969)

フリントはエディンバラの生まれ。幼少期に早くもその芸術的才能は見出されました。王立芸術学校で学びました。彼はまた、大規模な印刷工場で6年もの間見習いの仕事をしました。

20歳の時に、医学関係のイラストレーターになることを志し、ロンドンに移ります。1903年に、Illustrated London News社に入社し、そこで大英帝国の世界における大きな動きを知ることになります。1907年に独立し、その後、マロリーの「アーサー王物語」、チョーサーの「カンタベリー物語」、ホーマーの「オデッセイ」など、古典の限定版本に挿絵を描いています。また、彼の水彩画による女性の描写は商業的にも成功を収めました

【wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/William_Russell_Flint

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■51: ゴーブル、ワーイック                  GOBLE, Warwick (1862-1943)

ゴーブルは、北ロンドンのダルストンで旅行業者の息子として生まれ、ロンドン市立学校、ウエストミンスター美術学校等で学びました。彼の得意とするところは着色石版画による印刷の技術でした。著名な雑誌であるPall Mall Gazette, Westminster Gazette等へ寄稿しています。

1896年に、本の挿絵の仕事を始め、最初の仕事はH.G.WellのThe War of the Worldsへの挿絵でした。1897年には、Pearson’s Magazine誌に挿絵を描きました。1906年には、マクミラン社の“挿絵入りギフトブック”の正式な挿絵画家に指定され、特にKingsleyのThe Water Babiesや、BasileのStories from the Pentameroneの様な17世紀のお伽話の多くに挿絵を描きました。

【wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Warwick_Goble

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■52: ハーディ、ダドレイ                     HARDY, Dudley (1867-1922)

ダドレイ・ハーディは海洋画家のThomas Bush Hardyの長男として生まれ、絵を描くことに就いて父親から多くを学び影響を受けました。1882年にドイツのデュッセルドルフ・アカデミーで3年間学んだ後、2年間はパリとアントワープで学びました。イギリスに帰国しロンドンでの生活を始めましたが、ロイヤル・アカデミーで作品展示を始め、その仕事は生涯にわたり続けました。

彼の得意とする画の対象は中東とブルターニュ地域であり、砂漠の生活やブルターニュの農民の風景でした。彼はスーダンを訪れたことはありませんでしたが1890年代のスーダン戦争を描く戦争画家となり、ロンドンの雑誌へ戦争画を提供しました。その後フランスのポスター画の影響を受けています。彼の作品はロンドンのヴィクトリア・アルバート美術館に数多く保存されています。

【wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Dudley_Hardy

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■53: ハッサル、ジョン                        HASSALL, John (1868-1948)

ハッサルは、ケント州の高貴な海軍中尉クリストファー・ハッサルの息子として生まれました。8歳の時父親が亡くなり、母親は再婚して、弟のオーエンと共に二番目の父親と共に育てられました。ニュートン・アボット学校で学んだ後、ハイデルベルグのノイエンハイム学校で3年間学びました。1888年には、弟のオーエンと共にカナダのモニトバに移住し農業を学びます。然し、その2年後にThe Graphic に絵の才能を認められロンドンに戻ります。挿し絵画家Dudley Hardyの薦めもあり、アントワープでCharles van Havermaet に、またパリでは、アカデミー・ジュリアンでブーグローやフェリエ等に師事しました。

この時期に、ポスター画家アルフォンス・ミュシャの影響を受けています。1895年からDavid Allen社の広告画家として働き以後50年に渉って活躍しました。大胆な黒の線で囲まれたフラットな色を生かした彼のポスターのスタイルは絵本にも適していたので、マザー・グースの童謡本や妖精の物語等に多くの作品を残しています。

王立水彩画家機構会員(RI)

【wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/John_Hassall_%28illustrator%29

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■54:キーン、ヘンリー                           KEEN, Henry (1871-1935)

ヘンリー・キーンに関する伝記的情報は余り多くありません。元来、版画家、挿絵画家であり、ロンドンのゼネフェルダー倶楽部で石版画の展示をしていました。

彼の画は、シドニー・サイム(Sidney Sime)や、ビアズレーの影響をうけて、空想的で奇怪なものが多い様です。彼の挿絵の最高傑作はオスカー・ワイルドの「ドリアン・グレーの絵(The Picture of Dorian Gray)」と言われています。

【The Metropolitan Museum of Art】

http://www.metmuseum.org/collections/search-the-collections/90034470

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■55:マッケンジー、トーマス               MACKENZIE, Thomas (1887-1944)

マッケンジーは、ブラッドフォード生まれ。彼は、20世紀初頭に、本の挿絵や水彩画家として活躍しました。彼はArthur RansomeのAladdin and His Wonderful Lamp in Rhyme, Christine ChaundlerのArthur and His Knights, James Elroy FleckerのHassanに挿絵を描いています。

彼の挿絵はビアズリー、ハリー・クラーク、カイ・ニールセンを含むアール・ヌーヴォーの人達の作品を連想させるものがあります。Arthur and His Knightsにおける彼のイメージは、特に、カイ・ニールセンのEast of the Sun and West of the Moonと文体的に似ていますが、彼が制作する水彩画を彷彿とさせる柔らかさを持っています。

【wikipedia】

http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Mackenzie_%28illustrator%29

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■56:オア、マンロー・スコット              ORR, Munro Scott (1874-1955)

オアは、グラスゴー美術学校で学び、画家・エッチング版画家・挿絵画家となる。彼は、王立スコットランドアカデミー、王立スコットランド協会等で展示活動を行った多作の作家でした。

【artfact.com】http://www.artfact.com/artist/orr-monro-scott-oas21t12ra

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■57:パプ、フランク・チェーン            PAPE, Frank Cheyne (1878-1972)

パプは、スレ-ド美術学校で学び同窓生のアリス・ストリンガーと結婚します。全ての挿し絵画家がそうであった様に、パプも豪華挿し絵本の仕事については第一次世界大戦の影響を受けスランプに陥りました。しかし、1920年代の初期にJames Branch Cabell が書いた多くの本の挿絵を描いたことで、彼はアメリカとイギリスにおいて名声を得る事が出来ました。Cabellは、パプの絵のスタイルにフイットするような文章―時にはグロテスクで、ユーモラスで、恐ろしくて、魅惑的なーを書いたのでした。

The Cream of the Jest は、その典型的なもので、コミカルで哲学的なものです。彼は、フランスの作家アナトール・フランスの作品にも挿絵を描くなど、挿絵の黄金時代のイギリスで大人気を博しました。

【wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Frank_C._Pap%C3%A9

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■58:ロバートソン、ウォルフォード・グラハム

ROBERTSON, Walford Graham (1866-1948)

ロバートソンはロンドンの裕福な家庭に生まれました。彼は多くのフォームやスタイルに手を出しました。ラファエル前派の油彩画、イラスト、諷刺画、肖像画、印象派の風景画等々、才能のある作家であることを世に知らしめたのです。

更に、演劇にも興味を示し、30歳までに5つの主要な演劇のための衣装をデザインし称賛を受けています。彼は又、多くの友人や当時の著名な女優の肖像画を描きました。1894年には、彼は画家John Singer Sargentにより最もダンディなロンドン人として肖像画に残されています。

【jssgallery.org】http://jssgallery.org/Paintings/W_Graham_Robertson.htm

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■59:トンプソン、ヒュウ                      THOMPSON, Hugh (1860-1920)

ロンドンデリー州のコールレーンに生まれる。幼児期より優れた画才を認められ、16歳の時には、コールレーン・モデル学校の校長の退職に際し、装飾謝辞[Illuminated Address] を作成しました。この作品が認められ、ベルファストの美術出版社Marcus Ward & Co. から仕事を得ることが出来ました。同社でアイルランド王立アカデミーの会員であるJohn Vinycombから指導を受けました。
1883年に、ロンドンに移りました。そこで、Englsih Illustrated Magazine誌の William Comyns Carrにより雇用されました、1888年には同誌上に連載されたW. Outram TristanによるCoaching Days and Coaching Waysの挿絵を担当しました。

又 The Spectator誌の編集にも関わりましたが、そこで生み出した滑稽なキャラクターSir Roger de Coverleyを主人公にした、Days with Sir Roger de Coverleyを1886年に出版しました。彼は、その後もMrs. Gaskell’s Cranford SeriesやJane AustinのPrice and Prejudice(1894), Emma (1896), Sense and Sensibility(1896),Mansfield Park (1897), Northanger Abbey and Persuation (1898)等に挿絵を描きました。

その他、Shakespeare, Sheridan, Goldsmith, Hawthorne, J.M.Barrie 等の本にも挿絵を描いています。彼の特徴は、絵本にインクと水彩画による独特な装飾カバーを施すことで知られています。1891年には、著名な挿絵画家Kate Greenawayと共に美術協会で合同展示会を催しました。彼の影響は、C.E.Brock, H.M.Brockの作品に見られます。1907年に現役を引退し1920年5月7日に死去しました。

【Wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Hugh_Thomson

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■60:ヒューズ、アーサー                       Hughes, Arthur(1832-1915)

ヒューズは、ロンドンに生まれ育ちました。1846年にはサマセット・ハウスのデザイン・スクールでアルフレッド・スティーブンスの指導を受けた後、ロイヤル・アカデミー美術学校に奨学金で進学。1840年には17歳という若さでロイヤル・アカデミー展に初出品しました。
その翌年、彼はラファエル前派が発行した「ジャーム」という雑誌に感銘を受けます。その後、ラファエル前派の中心的存在であったジョン・エヴァレット・ミレイやロセッティ、ホルマン・ハント、フォード・マドクス・ブラウン等と知り合います。ミレイはシェイクスピアの物語を主題にした多くの作品を描いた画家です。ヒューズは、そのミレイと同様の主題を用いて腕を競った画家でした。
その結果としてミレイの代表作である「オフィーリア」と同名の作品を描きました。この作品は1852年にロイヤル・アカデミー展に出品され、彼の代表作のひとつとなりました。その他の良く知られている作品には、「エイプリル・ラブ」、「長い婚約期間」と言った愛と美といったものの儚さを見つめる様を描いたものがあります。彼はロイヤル・アカデミー展に継続して出品を続け、好評を得ました。彼個人はラファエル前派ではありません。

創作活動以外では、ラファエル前派の第二派のサークルである「ホガース・クラブ」の創設者のひとりと言う役割も担いました。種々の活動にも拘わらず、ヒューズは一度もアカデミーの正会員・準会員に選出されることはありませんでした。それは、彼が家庭生活を最優先する人物で、他の芸術家との付き合いを避けるような穏やかで物静かな性格であったことに起因する様です。

1855年頃から、挿絵の仕事も手掛ける様になり、挿絵画家としても成功を収めます。彼はテニスン、キーツ、クリスティーナ、そしてロセッティ等の詩集のための挿絵も創作しました。また作家のジョージ・マクドナルドとも交流もあり、彼の作品の挿絵も手掛けました。

生涯において700程の絵画と750程の挿絵を描いています。1857年には、ロセッティに請われてオックスフォード大学学生会館の壁画制作にも参加しました。1915年に亡くなる迄絵画制作を続けました。晩年の作の評価は若干落ちた様ですが、彼の描く絵の魅力は損なわれることは無かった様です。

【Wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Arthur_Hughes_%28artist%29

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■61:アンダーソン、アン                     Anderson, Anne. (1874-1930)

アンダーソンは、スコットランドで生まれましたが、幼児期をアルゼンチンで過ごしました。彼女は主にアール・ヌーボーの児童書のイラストレーターとして知られていますが、エッチングやグリーティング・カードの仕事も含め非常に多作な画家でした。

彼女の絵のスタイルは、同時代に活躍をしたチャールズ・ロビンソンやジェシー・マリオン・キング等の絵に影響を受け、色々と比較の対象にされた様ですが、同時にお互いに良き競争相手となりました。

彼女の作品は、エドワード朝期の終わり1910年頃に絶頂期を迎えます。1912年には、同性愛者“コルボ男爵”の本の挿絵などで19世紀末に成功し、又彼女の絵にも影響を与えた画家のアラン・ライトと結婚し、バークシャイアに居を構えました。夫ライトは、彼女の作品に対する協力を惜しむことなく継続し彼女の成功に大きく貢献したことで知られています。

A Collection of Children Books
illustrated and told by Anne Anderson

Anne Anderson (an Illustrator)

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■62:バーカー、シシリー・メアリー       Barker, Cicely Mary (1895-1973)

イギリスの挿絵画家で、児童文学者。ロンドンの南、サリーのクロイドンで、ウオルター・バーカーとメアリ・エリノア・オスワルドの第2子として生まれました。子ども時代、彼女は癲癇を患い、その症状は20代頃迄続き特別な家族の配慮を受けました。

両親は中産階級に属しており、病弱な彼女に乳母を付けました。彼女は、学校へは通わず家庭内教育で教養を身につけました。殆ど屋外に出る事は無く子ども時代は読書と絵を描く事のみに関心が有った様です。彼女の才能は早くから発揮され、水彩画の心得が有った父親ウォルターが彼女の良き教師で指導者となりました。1908年、僅か13才の時に彼女はクロイドン芸術協会の展示会に作品を出展しました。1911年には、四つの作品に買い手が付き、彼女の前途は洋々としたものになりました。

しかし、不幸な事に父ウォルターは1912年に41才の若さで逝去してしまいます。彼女は良き指導者を失うと共に、一家は経済的に苦境に陥りますが、姉のドロシーは教師として一家の生計を支えました。シシリー自身も彼女の詩作品や水彩画を雑誌社に売る事で生計を補いました。

1917年から18年にかけて、後に彼女を有名にする計画に着手します。彼女が愛する自然と子ども達の姿を美しい形でひとつの絵に纏め上げる『花の妖精』シリーズです。植物学的な正確さを求めて花々を観察し、又、生き生きとした子ども達の姿を活写するために近所の子供をモデルにスケッチを描きました。

こうして彼女は、『春の花の妖精(Flower Fairies of the Spring)』24作を完成させましたが、この彼女の本の出版を引き受けて呉れた出版社ブラッキー社が見つかったのは1923年のことでした。これが、彼女の『花の妖精』シリーズの第一作でした。

『花の妖精』詩画集シリーズは、片面に妖精の絵、その対面にシシリー作の詩を載せると言う形で作られています。「春・夏・秋・道ばた・庭・樹・アルファベット」と言う7巻シリーズの本がブラッキー社から出版されました。彼女の死後、1985年にブラッキー社は過去の作品から独自に編纂した『冬の花の妖精』(Flower Fairies of the Winter)を出版しました。

彼女は、『花の妖精』以外にも様々な挿絵を描き、詩画集や自身の創作による物語も出版しています。1954年に姉を、1960年には母を失います。彼女自身も体力的に衰えはしましたが1961年から1972年に亘り、クロイドン芸術協会の副会長を務めました。1973年2月16日死去。

【Wikipedia】http://en.wikipedia.org/wiki/Cicely_Mary_Barker

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■63:キング、ジェシー・マリオン         King, Jessie Marion (1875-1949)

ジェシー・キングはスコットランドの児童書のイラストレーターですが、また宝石や織物地のデザイン、陶器の絵師の仕事もした多彩な人でした。
グラスゴー近くのバースデン(Bersden)に生まれました。彼女の父親 James Watters Kingは、スコットランドの教会の牧師でした。彼女は、両親から厳格な宗教教育を受けた為、アーティストになることに躊躇いが有った様ですが、1891年に、グラスゴーにあるクイーン・マーガレット・カレッジで美術教師となって絵の修行を開始しました。1892年にグラスゴー美術学校に入り、学生ながら幾つかの賞を受けています。1898年には、サウス・ケンシントンの全国美術大会で銀賞を受賞しました。1899年には、同校で本の装幀に関する教師となりました。

1899年から1902年の間に彼女は、ドイツのGlobus出版社から出版された本の装幀やカバーの仕事をしています。同出版社は、ドイツの大きな百貨店Wetheimの子会社でした。その関係もあって、彼女は同時期のアール・ヌーボーによる影響を受けています。又、彼女の作品はThe Glasgow Fourなどの動きにもムード的には連動したものが有ると言われています。1902年には、ドイツとイタリアへの大旅行を行い、そこでボッチチェリーの影響を受けます。同年Turinで開催された、現代装飾美術国際博覧会において彼女の装幀本L’Evangile de l’Enfance〔幼児のための福音書〕が金賞を獲得します。その後、1903年にはグラスゴー美術学校の理事に、1905年には、グラスゴー女性美術家協会の会員となります。

彼女のアール・ヌーボーへの貢献は、1905年と1907年の間にグラスゴーのアンナン画廊とロンドンのブルトン・ストリート画廊で開催された展示会でピークを迎えました。1908年に美術家のErnest Archibald Taylorと結婚。1911年には、二人でパリにSheiling Atelier Schoolを開校。パリにおける彼女の仕事は、アール・デコ運動の始動にも影響を与えたと言われています。1915年にはスコットランドのカークブリに移り、そこで生涯仕事を続けました。

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