「リバウからツシマへ」
定価 \2,400 + 消費税
ISBN978-4-89253-439-3
著者: 長村 玄
発行所: 文生書院/発行者: 小沼良成
装丁者: 杉村直子/印刷: モリモト印刷
A5版 ボード装製本/カバー付 320頁

リバウよりツシマへ 「まえがき」より抜粋
ポリトゥスキー(Politovskii, Evgenii Sigizmondovich)という人の名前は聞いたことがないという方は多いかもしれない。しかし実は多くの人が、この名前を目にしているのではないであろうか。国民的歴史文学の代表と位置づけられる司馬遼太郎の『坂の上の雲』には、約八十回も「ポリトゥスキー」の名前が出てくる。
とくに文春文庫版第六巻だけで五十回の多きに達しているのである。同書から彼のひととなりを引用してみよう。
『坂の上の雲』の「印度洋」には、旗艦スワロフの技師であるポリトゥスキーは、齢三十二、両眼に一種の憂鬱さをたたえているが、しかし、しなやかな身体と端正な容貌をもった青年で、その能力は、このスワロフの機関長オブールスキーに大いに買われており、「かの青年が、いずれロシア海軍の造艦界を背負うときがくるだろう」と、つねづねいっていた。無口で責任感がつよく、幕僚室でもつねにひとりで長イスにすわっていた。
この碇泊中、ポリトゥスキーの仕事はどの士官よりも多く、各艦がひっきりなしに、機関が故障したとか、舵機の調子がおかしいといってくるたびにかれは汽艇に乗って出かけてゆき、みずから機関の中や、水の中に入りこんで故障の場所をみつけ、その修理の指揮をした。
この明敏でやや憂鬱症気味の青年にはこの艦隊の欠陥が、機械の面だけでなく、指揮官の能力や、兵員の練度にいたるまでよくみえ、さらには極東でおこなわれるであろう東郷艦隊との邂ら垂の結果については絶望的な観測しかもっていなかった。かれはその手記をのこしたまま日本海海戦で死ぬひとであるだけに、自分の妻にのみあてたその私信に政治的配慮などがほどこされているはずがなかった。と記されている(文春文庫版(六)三百十三ページ)。
また、ノビコフ・プリボイ著『ツシマ』(上脇進訳 原書房 二〇〇四)には、幕僚部の機関科将校としてその名前が出てくるし、大江志乃夫著『バルチック艦隊』(中公新書)にも十二月十二日の日記が引用されている。ポリトゥスキーはバルチック艦隊に技師として乗り組み、日本海海戦で戦死したが、その間の記録を几帳面に日記に書き、これを妻に宛あてて送り続けた。これを日付順に構成したのが本書である。妻に宛あてた書簡でもあるが、書き方は日記そのものである。
底本には時事新報社翻訳『露艦隊来航秘録』(海軍勲功表彰会 一九〇七)を用い、さらに「あとがき」にも記したように一九〇八年にニューヨークのE.P.DUTTON AND COMPANY から出版された英訳版も参照しながら現代文に「翻訳」しなおした。
彼の日記の内容を理解しやすいようにできるだけ多くの注釈をはさみ、地図や写真等も適宜入れるとともに、この頭注部分には日記が書かれた日の日露戦争に関わる事件や日露両国の大きなできごとなどを載せるように努めた。
本書の最後に、日本海海戦の開始からポリトゥスキーの乗ったスワロフが沈没するまでの経緯、バルチック艦隊航跡図、ロシア太平洋第二・第三艦隊の艦艇表を付けたので参考にしていただきたい。
(裏見返しのデザイン・表見返しのデザインはバルチック艦隊の日付つき全航跡図です)

本書12-13頁より(1904年10月21日:ドガーバンク砲撃事件)
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