僕は岐阜市に生まれたのですが、大きな芝居小屋もあるぐらいの柳ヶ瀬という繁華街がありました。初めて見た映画は無声映画だったと思いますが、ちゃ んと弁 士もついていて、スクリーンの中でチャンバラがはじまると母親にしがみついて見ていましたね。これが劇場での最初の体験だと思います。自覚的に『丹下左 膳』をいいなと思ったのが、小学校に上がる前の5歳ぐらいのことだったですかね。文学少女だった母は、映画も大好きで、よく映画館に連れて行ってくれまし た。
―早稲田大学の演劇学科で中世・近世の日本演劇史を学ばれた後、松竹大船撮影所へ入所されたわけですが、当時の篠田さんに とって『キネマ旬報』とはどのような雑誌だったのでしょうか?―
映画監督というものは、“キネ旬”のベストテンに入らないと一人前として遇されないという感じがありましたよね。ベストテン入りが自分に対する批評 家の評価であり、世間の評価でもあった。松竹大船撮影所には、そのベストワンを争う、小津安二郎、木下恵介、渋谷実がいた。川島雄三はいい映画を撮ってい たけど、なかなかベストテンには入らなかった。僕らは生意気な助監督だったから、「『キネマ旬報』のベストテンは最低だな」とか言っていましたが(笑)。 今回復刻される時期のものを見ていると、僕がデビューした頃から面識のある編集者や同人の名前が随分載っていますね。ただ、『キネマ旬報』は、いわゆる 「20世紀芸術としての映画」という論点でつくられていて、その点では僕の映画は、そこからはまるで違うところから出発していますからね。ちょっと反発す る思いの方が強かったのかもしれません。もちろん、外国映画の紹介なんか素晴らしいと思っていましたけれど。
―今度復刻される『キネマ旬報』は1930年代のものが中心となっています。篠田さんが2003年につくられた『スパイ・ゾルゲ』 は、ほぼ同じ時代を舞台に製作されています。―
そうですね。ゾルゲは昭和8年に日本にやってきて、16年に逮捕される。その8年間、東京に潜入して、昭和モダニズムと、その周辺を見ていたわけで すけれど、「ゾルゲ」を撮るということは、昭和モダニズムを再現することだった。資料では、帝劇で『駅馬車』を見ながらスパイ活動をすることがあったんで すが、この“キネ旬”に載っているような映画のポスターが時代表現に役に立ちました。当時の映画ポスターは、本当に味があるんですよね。あの時代の日本 は、ポスターだけでなく、グラフィズムがものすごく発達していて、昭和15年の“キネ旬”なんか、今の雑誌よりモダンですよ。20世紀の芸術を作ろうとい う意欲が、この雑誌を出した人たちには感じられる。
―今回の『キネマ旬報』の復刻は、1920年代、1930年代の映画史を考え直す手がかりを得よう、という意図で編まれています。 篠田さんも映画作家として『スパイ・ゾルゲ』において、同じ昭和の時代を新しい視点から表現しなおして、どうにかして次の世代に伝えようとなされたと考え てよいのでしょうか。―
そうですね。昭和モダニズムをいかに伝えるか。つまり、昭和という新しい時代記号シニフィァンが、あそこで生まれてきたわけだから、それをどうやっ て再現させて見せるのかということですよね。具体的には、昭和10年代の市電を復元して、それをいかにして映画の中で走らせるかってことでもあったし、ゾ ルゲが見た1930年代って何だったんだろうということです。あの時代を考えることは、それ以後の日本の歴史を考えることにつながっていくわけですから。
―最後に、1930年代の『キネマ旬報』がまとまって復刻される意義について、ご意見をうかがわせてください―。
今 日改めて、当時のものを見て、『キネマ旬報』というのは、アメリカン・デモクラシーの明朗さだと思いましたよね。レタリングから何から、ヨーロッパのもの ではない。アメリカなんです。要するに、アメリカ映画の持っているオプティミスティックかつヒューマニスティックな雰囲気を持っている。ヨーロッパのクラ シックな芸術に対して、ポップアートを目指したアメリカ映画。そのことを、こうやって実際に手に取って感じられるだけで、大きな意味がありますね。『キネ マ旬報』は、具体的に昭和というものを考える時の、ものすごい証拠品だと思います。昭和って何だったのか。“キネ旬”という雑誌から考えていくことができ る。ここで書かれている批評の言葉、言葉遣いから、レタリング、レイアウトされたフォトやイラストまで、全部が昭和という時代を表しているわけです。学校 で習う年表のような歴史からは、絶対に見えないものが、確かにここにはあります。これは昭和の大きな証拠品ですね。
(『週刊読書人』2008 年 11月21日号掲載のインタビューより一部を抜粋掲載)
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