キネマ旬報が、東京工業大学の同窓生の手による同人誌の出発であると聞き、なるほどと納得した。商売する営業雑誌ではなく、純粋の映画好きの精神が 貫かれていた。
初期は旬報の言葉通り月3回発行され、ロナルドコールマン氏、阪東妻三郎氏という風に、監督女優とも呼び捨てにせず、敬意をはらっていた。弁士は徳川夢 声、山野一郎など弁士の名前も大きく書いていた。
私と映画の関係は、昭和六年、高等学校へ入学した事から始まった。故郷を離れたさびしさに映画 館に入り浸ったのに始まる。
映画製作がハリウッドに集中する以前、映画が人に喜ばれるにはどのようなものがいいか迷ううち、映画を見終わった 観 客の感想を拾っていくと、女優が素晴らしい、メアリーピックフォードがいい、などの声が多く、筋よりも俳優が大切だと判り、手の届かない、空に輝く星にち なんでスターと名づけ、スターシステムの名称の下に公開が始まった。
私が映画に熱中し、その手引きとして「キネマ旬報」の読者となり、ある時 休 暇が終わり学校へ戻る時、丁度本屋が新しい号を届けにきたので、大喜びで本を持って出かけた。後で、父が映画スターの表紙の本に熱中しているのを見て、 「活動」に浮かれて将来どうなるかと心配だと話していた事を母から聞いた。毎号表紙が女優のクローズアップ写真、四段組の青色の活字も懐かしい。
そ の頃、ソビエトのプドフキンやエイゼンシュタインのモンタージュ論が盛んで、学友にも影響され、映画作品の感想エッセイをキネマ旬報に投稿しはじめた。
旬 報には「読者寄書欄」というものがあり、のちに有名になった双葉十三郎や、続いて淀川長治らの名があった。何度かの投稿の後、ルットマンの「鋼鉄」を論じ た小文が掲載され、勇気づいて次々投稿していった。その頃、岸松雄(筆名和田山滋)が山中貞雄の処女作「抱寝の長脇差」の発見を、三段組で発表し大評判に なったりした。
映画にトーキーが入り始め、ルネクレールの「巴里の屋根の下」が公開され、その時、読者寄書欄に今村太平という新人が現われ、 フ リーチェの芸術社会学をひっさげてアメリカの映画を論じたり、映像の魅力とシナリオの関係を分析する「音画芸術の三つの問題」などのエッセーというより小 論文を掲載、(一)(二)(三)と連載されつぎつぎ賞をもらって刮目された。選者は飯田心美。今村は投稿仲間の私に映画研究会を作ろうと手紙をくれ、大学 の映画研究会を作り、のち「映画集団」の同人誌を作り、後年の川島雄三や、のちキネマ旬報の編集にも加わった時実象平など明治大学生も加わった。
戦 後、毎年毎日新聞のコンクールが開かれたが、席上、岸松雄(本名阿字周一郎)さんと談話をした際、たまたま山中貞雄の話になり、第二回作品「小判しぐれ」 に話が及ぶと、「三年待てばきっと帰ると言っていたけれど」「その三年が待ちきれず」「江戸へ出て」「もう三月」とその頃の山中の字幕と映像を組み合わせ てリズムを作る所を暗唱して見せて私を驚かせた事があった。
とにかく、「キネマ旬報」という誌名を大正以来今に続けている誌名は、殆どないの で はないか。経営者は変わったが、その一途の純粋は見事なものである。 |