ヨーロッパの王侯貴族の城、館や僧院では、石造りの建物に吹きこむ冷たい風をよけるため、
なめした子牛の革に金属箔を貼り、模様をプレスし、ニスを塗って金色をだした後に彩色した
ものを壁に掛けておりました。之が金唐革です。その技術はムーア人(北西アフリカのイスラム
教教徒の呼称)の発明に機を発し、スペインでエンボス革の壁張りが作られるようになって、
更に広まったとされています。コルドバが16世紀の中頃にこの工芸品の中心地であった為、この
技術は「Cuir de Cordoue」(= “from Córdoba”),と名づけられました。17世紀に入ってこの技術
はコルドバからオランダへ伝えられました。オランダは、その後長い間に渡ってこの技術の中心
地となり、”goudleer” (= gold leather )の名称で、製品を他の欧州諸国、中国 そして日本に
輸出していました。およそ17世紀の半ばであったと考えられています。
(尚、一説にはイタリア経由とする徳力説もございます)
徳川家の歴史を書いた『徳川実紀』に、寛文二年(1662年)3月、「蘭人入貢金唐革十枚」
と記載されております。十枚とはいかにも少ないですが、それだけ貴重だったに違いありませ
ん。ヨーロッパに比べると、日本の皮革工芸は大幅におくれていました。いかにも異国的な、
豪華な金唐革は珍重され、武士は刀の柄や馬具などに、富裕な商人は煙管入れをつくったり屏風
仕立てにしました。輸入品が増えすぎて寛文八年(1668年)、ついに禁止令が出ます。贅沢
な金唐革も「無用なもの」として指定されてしまいます。「金唐革御停止」です。それによっ
て、極めて貴重かつ入手困難な品物と成りました。そこで、和紙を素材とした代用品の製作が
日本で行われた結果、1684年に伊勢で完成した製品が、
「金唐革紙」(「擬革紙(ぎかくし)」、Japanese leather paper)
もしくは金唐紙(きんからかみ)の始まりであると言われております。又一説には江戸の奇人
平賀源内が係わったという説もございます。
ほぼ2世紀後の明治時代になって日本ではこの金唐革工芸品の復活が到来しました。ヨーロッパ
の宮廷や城、教会の壁を飾っていた金唐革ですが、やがて建物などが改築される時期がきます。
新しい壁布、壁紙に張り替えられるために剥がされた金唐革は、明治になって大量に日本に
やってきました。帯刀を禁じられた武士たちは、これで煙管入れと煙草入れをつくって腰に
差し、金唐革の煙管入れが爆発的に流行しました。
「お軽の簪(かんざし)、金唐革の煙管入れ」という軽口言葉ができたくらいです。明治38年
に「ホトトギス」に発表した漱石の『吾輩は猫である』に、「迷亭先生は金唐革の烟草入れから
烟草をつまみ出す」と書いてあります。日本に入ってきた大量の”壁張り”金唐革は、たちまち細
かく刻まれて大量の煙草入れになりました。
一方、金唐革紙は和紙に金属箔(金箔・銀箔・錫箔等)をはり、版木に当てて凹凸文様を打ち出
し、彩色をほどこし、全てを手作りで製作する高級壁紙として使われました。金属箔の光沢と、
華麗な色彩が建物の室内を豪華絢爛に彩る。明治時代には、大蔵省印刷局が中心となって製造・
輸出され、ウィーン万国博覧会・パリ万国博覧会など各国の博覧会で好評となり、欧米の建築物
(バッキンガム宮殿等)に使用されました。国内では、鹿鳴館等の明治の洋風建築に用いられま
したが、その多くは現在消滅し、現存するのは数ヶ所だけという貴重な文化財になっている。
昭和初期には徐々に衰退し、昭和中期以降その製作技術は完全に途絶えていた。しかし、現在は
数人の方がその技術を再興致しているそうです。 |