本書の出版によって,研究者としての道を歩むようになってから12年以上も研究してきた排日問題(日米移民問題)に,ひとまずの区切りをつけることができた。本書の原型となっているのは,1998年12月に神戸大学大学院法学研究科に提出した博士学位論文である。同論文は二部構成を取っており,前半は州レヴェルを中心とした排日運動,そして後半は連邦レヴェルを中心とした排日移民法の成立過程を考察した。しかし,A4判で500頁以上にも及ぶ博士論文を完全な形のままで出版することは不可能であった。そのため,まず後半部分を『排日移民法と日米関係一「埴原書簡」の真相とその「重大なる結果」』と題して,2002年に岩波書店より刊行した。高価な学術書であったが,それなりに読まれ,米国の学会誌においても書評が掲載された。そして,最も嬉しかったのは,アメリカ学会清水博賞を受賞したことである。
残された課題は,博士論文の前半部分の出版であった。処女作を刊行してから,いろいろと忙殺され,それを単著としてまとめる時間を思うように確保できなかった。その間,意外な資料の発見から日本の暗号解読という新しい研究に身を投じることになり,神戸大学研究双書刊行会より出版が決まった後も,カリフォルニア州の排日運動の原稿の完成は遠のくばかりであった。そもそも,2003年12月の刊行予定がほぼ3年も遅れたのだから,多くの方々にご迷惑をお掛けした。とりわけ,双書刊行委員長であった同僚の森下敏男先生には,この場を借りてお詫びを申し上げたい。
こうした絶望的な状況の中,2005年10月より日本学術振興会海外特別研究員としてオックスフォード大学に留学する機会を得た。そして,客員フェローの肩書きで聖アントニーズ・カレッジに所属しつつ,隣i接する日産日本問題研究所にて研究室をいただくことになった。さらに,所長のウァズウォ先生によるご厚意で,研究所の最上階にあるフラットに住むことができた。地上階が図書館,二階が研究室,そしてその上に住居まさに研究者の夢である。煩わしい通勤からも解放され,しばらくぶりに集中して研究に没頭することが可能となった。そうした結果,ようやく本書の原稿をまとめることができたのである。思い起こせば,初めての単著もハーバード大学への在外研究中に書き上げた。どうも筆者は,神戸を離れないと本を完成させることができないらしい。ともあれ,『排日移民法と日米関係』の刊行から4年後に,次作となる本書を出版できたのは望外の幸せである。
なお,本書は,その大部分が書き下ろしである。次に明示するように,論文としてすでに公表としている箇所は若干あるものの,いずれも大幅に加筆・修正しているため,原型をほとんど留めていない。
第1章:「1906年サンフランシスコ学童隔離事件と日米関係排日運動の原点」神戸大学法学・政治学篇『六甲台論集』43巻1号(1996年7月),119-139頁。
第2章,第4章:「移民問題解決への二つの日米交渉一1913年珍田・ブライアン会談と1920年幣原・モーリス会談」『神戸法学雑誌」50巻1号(2000年6月),39-92頁。
第3章:”The Roadto Exclusion: The 1920 California Alien Land Law and U.S. Japan Relations, “Kobe University Law Review 30(1996),PP.39-73.
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日米移民問題というテーマに関心を持ったのは,そもそも筆者自信がカリフォルニアで育った日系アメリカ人であるからか,と尋ねられることがある。しかし,その答えは「否」である。本研究の焦点は日本人移民の原体験にはないが故に,本書では日本人移民の固有名詞は一度も登場しない。つまり,本書の主関心は移民研究ではなく,より広範な日米関係にある。すなわち,本書が目指すのは,オーソドックスな政治外交史の研究なのである。
政治外交史家は,伝統的に「パワー(力)」と「インタレスト(国益)」を主体として国際関係を考察し,研究を行う。しかし,排日問題は,「パワー」のみならず「インタレスト」とも無縁である。日本人移民の待遇が悪いからと言って,日本の国家安全保障は損なわれるわけでもなく,国益にも累は及ばない。にもかかわらず,この問題は戦前の日米関係における重大な懸案事項として存在し,排日移民法が成立した後は大きな禍根を残すことになった。ここに,排日問題の本質がある。実質的な利害関係を伴わない問題でも,国家を構成するのが「人」であり,また指導者・政策決定者も「人」であることを考えると,差別から生じる感情部分の問題は決して軽視・看過できないのである。とりわけ,近代日本の出発は不平等条約を原体験としているだけに,差別に対しては
反射的に極めて敏感であった。
富国強兵を国家目標とした日本は,目を見張る勢いで成長し,経済的にも軍事的にも列強との差を縮めることができた。1904-05年の日露戦争は,短期間のうちに日本がどれほど実力をつけたかを世界に示した。しかし,第一次大戦後のパリ講和会議にて日本は人種平等案をめぐって苦杯を嘗めたことからも,五大国の一員となっても差別に打ち勝つことがいかに大変であるかを痛感したのである。人種差別は特にその性質上,たちが悪く,いかに努力しようともそれを乗り越えることは容易ではない。近代化に成功し,ようやく列強と肩を並べた日本は,打ち破ることの出来ない壁に直面することになる。列強で唯一の非白色人種の国家であったという事実は,日本には過酷であり,また,難題を投げかけるものであった。こうしたなか,カリフォルニア州の排日運動によって示されるアメリカからの拒絶は,日本を従来の「脱亜入欧」の意識からアジアの盟主としての「脱欧入亜」の意識へと傾倒する契機をつくったのである。
負の遺産としての戦前の日米関係は,一般に中国問題の視点から論じられることが多い。しかし,本書が示すように,移民問題という観点も座視できない。多面的・重層的な日米関係を正しく理解するためには,人種差別をその根底に置いた移民問題の考察は欠かせないのである。なぜならば,もしアメリカが日本人移民に対して,他の白人系移民と同様な態度で接していたなら,全く異なる日米関係の展開も十分あり得たからである。少なくとも,日本のリベラリストや国際協調主義者らは,モラル・リーダーシップを喪失することなく,国民に対してより説得力をもって軍国主義に対する警鐘を鳴らすことができたであろう。このように,排日問題によって犠牲を払ったのは当事者の移民だけはなく,アメリカに対して大きな信念を寄せていた日本の知識人たちも大いに傷つき,その延長線上に日米関係も殿損したのである。
本書は,カリフォルニア州の排日運動の実証分析であるが,その底流をなし
ているのはこうした問題意識である。そして,ここから汲み取って欲しい筆者の願いは,歴史の教訓をしっかりと学び,同じ過ちを繰り返すことなく健全かつ堅固な日米関係を将来に亘っても保つことである。アメリカと日本を二つの祖国として思う筆者からすれば,これが最も読者に伝えたいメッセージである。 |