「ヒューイ・P・ニュートン マイクロフィルム・コレクション」について
このコレクションは、ヒューイ・ニュートン・ファウンデーションにより制作されたもので、1960~70年代におけるブラック・パンサー・パーティの思想、活動に焦点を合わせて編集されています。
ヒューイ・ニュートンHuey P. Newtonに関連する資料のほか、組織内の動静や1970年以降に行われた,地域に根ざした活動に関する基礎文献が収録されています。 広報紙や公刊されなかった文書,ニュートンやほかの主導者たちによって記された組織内教育資料,主だった裁判で使用された司法資料等も収録されています。コレクションの現物は、オークランド博物館の協力により収集して来たもので、すべて同博物館に保管されていましたが,マイクロフィルム撮影後にスタンフォード大学に移管されました。同大学図書館内のウェブサイトから詳細なガイドをご覧頂けます。是非ご高覧願います。
「ブラック・パンサー・パーティ」の歴史
ブラック・パンサー・パーティは,公権力の暴力から身を守る為にアフリカ系アメリカ人を組織・訓練する目的で「自衛のための武装組織」として,ヒューイ・P・ニュートンが1960年代後半に設立しました。1966年に「我々の欲すること,我々の信ずること」という題名の綱領を発表しました。公民権に通じた武装パトロール隊を組織し,警察の動静を監視することによって地域社会の安全を守りました。議長はボビー・シールBobby Seale(1966年から1974年迄),情報担当エルドリッジ・クリーバーEldridge Cleaver,主席補佐デイビッド・ヒリアードDavid Hilliard,そして防衛担当はニュートン(1966年から1981年迄)でした。
1967年1月にカリフォルニア州オークランドに最初のオフィスが建てられました。同年11月迄に,警察官に向けて発砲したことで逮捕されたニュートンを含め,殆どのメンバーが収監されて仕舞いました。その後,「ヒューイを釈放せよFree Huey」運動や,広報誌の刊行,スピーチ活動の増加などにより,ブラック・パンサーは自衛組織から政治的組織へと変化していきました。1968年には児童への無料朝食サービス,医療サービス,学校,メンバーのための政治教育クラスなど,地域社会のためのプログラムを開始しました。それに伴い,アメリカ中に支部が建てられて行きました。然し乍ら、ニュートンは収監中の上,さまざまな裁判が続き,クリーバーは出国中,シールとヒリアードは組織から除名されるなど,上層部は惨憺たる状態を呈していました。一方,組織の拡大,そして武装パトロールの常態化とその暴力性を察知していた連邦および地方警察は,メンバーと組織の活動を監視し,ファイルを作成し保管していました。 1969年には警察スパイの潜入や,組織内のイデオロギー対立などにより混乱に拍車がかかりましたが,1970年にニュートンが釈放され,指導者として復活すると,組織は一時的に安定化し,地域社会の支持は再び高まっていきました。
ところが,ニュートンの不在中にクリーバーを中心とした不満分子が増殖し,革命の定義で意見が対立していきました。クリーバー一派は,もともとは自衛のための武器を,国家社会への最終通告と見做していました。革命を飽くまでもプロセスと見做していたニュートンにとっては,オークランド・コミュニティ・スクールや老人福祉サービスなど「生存のためのプログラム」の実行を優先課題としていました。1972年にクリーバー一派は組織から除名されました。1973年には,逮捕を免れるためにニュートンはキューバに出国し,同時にシールが組織から脱退してしまい,組織は再び危機を迎えました。エレイン・ブラウンElaine Brownが議長の役を担うことになりましたが,1977年にニュートンが帰国すると,上層部はまたしても分裂し,混乱を極めました。1981年には最後のコミュニティ・スクールが閉鎖され,ブラック・パンサー・パーティは終焉を迎えました。ニュートンは自身の理念とカリスマ性をもって,組織を拡大して行きました。1980年にカリフォルニア大学サンタクルス校にてPh.D.を取得し,自身の思想や組織活動に関する論文をいくつか著しました。1989年にニュートンが亡くなったのち,ヒリアードとフレドリカ・ニュートンFredrika Newtonとにより,ヒューイ・ニュートン・ファウンデーションが設立されました。 |