「自分誌」の時代 一橋大学教授 山本 武利
近代日本のメディア史あるいはコミュニケーション史には、三つの転換期がある。まず第一は明治維新から自由民権期にかけての時期だ。とくに自由民権期には草莽の臣が反藩閥のメディア活動を展開した。しかし一部の政治意識の高いインテリや士族が担い手であったため、かれらへの政府の弾圧でブームは短期間に終息した。
第二の転換は第二次大戦後の占領期である。敗戦となり、被占領国とはなったものの、長い軍国主義からの重圧から解放された喜びを自分たちのメディアで吐露したいとの欲望が各階層から噴出した。かれらは占領軍を解放軍と見なし、言論、表現の自由を保証した新憲法を拠り所とした。今まで自分の考えや夢を文章で表現したことのない人々が、新しい時代を自分の言葉で表現した。そのエネルギーは生活難ばかりか用紙難、印刷難をも克服するほどの強さがあった。色川大吉氏は自分の人生体験の文章への表現を「自分史」といったが、占領初期の民衆のメディア創刊の一大ブームは、さしずめ「自分誌」の時代ということができよう。「自分誌」の刊行には、思想家、社会主義者など戦前にそのメディア活動が権力に弾圧された自由民権期型のインテリだけではなく、青年団員、引揚者、結核療養者、戦争未亡人など従来メディアに無関係だった人びとが目立った。センカ紙利用のガリ版印刷など等身大の雑誌刊行に走った。
プランゲ文庫の雑誌目録を見て、私の幼年期のメディアが登場しているのに驚いた。夫を戦争で失った私の母は、『いつかし』(愛媛県宇和島市)の短歌雑誌への投稿に生きがいを見いだした。ちなみにこの目録には、同誌のようなアララギ派雑誌が少なくとも21誌出ている。母が購読し、その主宰者がわが家にもときおり訪ねてきた仏教兼俳句誌『大耕』(内子町)の名も見える。また義兄が教師をしていた八幡浜市立愛宕中学校国語研究会の『窓』もある。さらに私の最初の愛読誌の学年別雑誌『銀の鈴』(広島市)の懐かしい誌名もある。
たしかに第二期は「自分誌」の時代であった。母を含めこのブームに参加した人びとの多くは、人に見せたり、売るためではなく、生きがいのために筆をとり、なけなしの金をメディア活動に投じた。「自分誌」は困難な時代を克服し、新しい未来を拓く自分のためのメディアであった。その後の社会の激動と多忙な生活のなかで、そのメディアは刊行者の周辺から消えて行った。
ところがGHQ/SCAPはこれらのメディアを刊行者から届けさせ、プレス・コードに従って検閲し、保管した。占領軍の方針に批判的な一部のメディアは文章を削除されたり、公開禁止となったが、大部分の雑誌は形式的な事後検閲でそのまま刊行された。現在地元の図書館や学校でもほとんど所蔵されていない雑誌が、プランゲ文庫には多数所蔵されている。検閲当局にいたプランゲ博士は、炯眼にも保管された膨大な検閲メディアの現物に歴史的価値を見出し、メリーランド大学に持ち帰った。
プランゲ文庫は占領期メディアの宝庫である。今まで主として検閲史、メディア史の研究で利用されてきたこの文庫は、地方史、教育史、文学史、文化史、社会史、政治史、経済史などの分野でも魅力あふれる資料群をもつ。
インターネットの時代という第三の転換期にプランゲ文庫はマイクロフィッシュ版で刊行されることになった。刊行に協力する私たち研究者もホームページでこの文庫の情報や利用法を多くの人びとに提供する予定である。これを機に文庫が幅広い分野の内外の研究者に本格的に活用される時代を迎えれば幸いである。
占領期女性の生活と意識を知る宝庫 名古屋経済大学教授 水田 珠枝
第二次世界大戦後の占領期は、日本が女性の解放へとおおきく揖を切った時期であった。法のもとでの男女平等が「日本国憲法」に規定され、女性参政権が実現し、教育の機会均等が明文化され、古い「家」制度が解体させられた。欧米の女性が長い苦しい闘争の結果獲得しまたは獲得しつつあった諸権利を、日本の女性は短期間に手にいれることができた。戦後第一回の衆議院議員選挙では、「女は女同士」という合い言葉のもとに、連れだって投票所にでかける女性たちの晴れやかな表情を、私は忘れることはできない。
このような女性の解放は、日本の軍国主義復活を阻止しようとする連合軍総司令部の政策の一環であり、その政策を実現するための施策のひとつとして、出版物の検閲がおこなわれた。占領は主権の侵害であり、検閲は言論の自由の侵害である。しかし、占領という事態がなければ、日本における女性解放は大幅におくれたであろうし、資料の保存にたずさわったプランゲ博士をはじめ関係者の熱意と努力がなければ、現在の私たちは占領下のおおくの出版物に接することができなかった。
今回マイクロフィッシュとして公開されるプランゲ文庫は、雑誌部門の約13.000点あまりである。この膨大な量のなかで題名だけから女性関係の雑誌を拾い上げれば、「家事・家政」、「婦人誌」に分類されている部分であり、また教育に分類されている部分に散見されるのだが、女性に関する問題が政治・経済・歴史・科学など広範な領域にわたっていることを考えると、女性の問題と女性の発言を知るには、すべての領域を研究対象にしなければならない。
総司令部の女性政策と、戦争による生活の破壊と食糧難にあえぎながら女性たちがどのように生き、何を考え、何を社会に向かって発言したかが、この資料を使ってさまざまな角度から研究され、さらに明治以来の近代女性史のなかに、占領期が明確に位置づけられることを期待したい。
ページトップに戻る
戦後教育改革史研究にとってのプランゲ・コレクションの意義 日本大学教授 佐藤 秀夫
このたび文生書院より米国メリーランド大学マッケルディン図書館東亜部所蔵プランゲ・コレクションのマイクロフィッシュ版が刊行販売される。心からの敬意と賛同とを捧げたい。
私は1985年以降、被占領下日本の教育改革に関する史料調査のためにしばしば米国各地を訪れた。その際、対日占領の連合国軍関係公文書が保存されているワシントンD.C.地域には、当然毎回必ず滞在したのだが、その都度必ず訪問したのが、ワシントン東北郊外のカレッジ・パークにある上記のプランゲ・コレクションであった。それはいうまでもなく、被占領直後の1945年~1949年に日本国内で出版が計画され実行された新聞・雑誌・図書・パンフレット類を調査するためである。
私の専攻する教育関係については、とくに豊富であった。いわゆる教育雑誌の他に、地域青年団体・婦人団体から旧制中学校の同人誌に至るまでの雑誌、当時出版されながら今ではその存在が国内では確認されない教育図書から受験参考書まで、まさに当時の教育実態を示す史料の宝庫であった。日本の常識では図書館に収蔵されることの少ない受験参考書・受験手引き書などが、すべての出版物を漏れなく検閲するCCD(民間検閲局)の視点から、収集され保存されてきたのである。これだけでもうわべの法制を超える当時の教育実態を検証するうえで不可欠な史料となる。さらに、原稿またはゲラ刷の段階で出版禁止された図書・雑誌のチェックの痕から、占領軍の教育文化政策の実相を具体的に知ることができるのである。
今回の『プランゲ文庫(雑誌編)』の出版・販売は、厖大な同コレクション全体のマイクロフィルム化のための資金創出をも目的としているという。用紙の劣化が進行中のこの貴重なコレクションを次世紀の人々に完全なかたちで手渡していくためにも、本事業の順調な滑り出しを願ってやまない。
ページトップに戻る
新生日本の息吹の追体験を 政策研究大学院大学教授 御厨 貴
いつの時代でも、雑誌を読むのは楽しい。それは内容の如何にかかわらず、雑誌は時代をきちんと写し出す鏡の役割を果たすからだ。
プランゲ文庫の雑誌部門のコレクションがマイクロフィッシュ版で、手に入りやすくなるという。これはよい企画だと思う。なぜなら、占領期日本においてこの国の津々浦々で発行された大小の雑誌類をほぼ丸ごと集めたものだからだ。
もっともGHQ当局による検閲の実態という観点から、専らこれまではプランゲ文庫への熱い視線が注がれてきた。無論その観点は重要である。しかしこのコレクションの目録やいくつかの実例を目にする時、検閲の有無を越えた、新生日本の息吹をまず感じるであろう。政治関連はさすがに東京発信が多いものの、経済、労働、教育ともなると、地方発信がぐんと増えてくる。発刊の主体も様々だ。今はもうとっくに消えてなくなったようなものから、今日もしっかりと存在するものまで、それこそ千差万別。
雑誌のタイトルにも敗戦後のそれでも開放感にあふれた文字が踊っている。「しぶき」「さけび」「れいめい」「わかあゆ」などのかな書きのタイトルが息づく青年団の雑誌。「覚醒」「先駆」「汗闘」「熱風」と、時代を担う気概を示す漢語のタイトルで迫る労働組合の雑誌。きわめつけは「カストリ雑誌」とも称された読物誌の類だ。「妖奇」「猟奇」といったオドロオドロしいタイトルから、「オール不夜城」「青春ロマンス」「情痴くらぶ」と何ともなまめかしいタイトルまで、ズラリならんで盛観そのもの。
国民の一人一人が何かを訴えたく、何でもむさぼるように読みたいという衝動にかられた時代の産物である。たとえ「三号雑誌」でもいいと。衣食住からしてままならぬ状況の中で、いやそれだからこそ、検閲、配給制限といった困難をおして、百花繚乱ともいうべき雑誌文化の花が咲いたのであろう。さあ、ふり返って見てみよう、半世紀前の日本人のタテマエとホンネの双方にアプローチするために。
ページトップに戻る
戦後史の原点を分析するための貴重な資料 東京経済大学教授 竹前 栄治
20世紀で最大の出来事は、社会主義の盛衰、世界大戦、コンピューター社会の出現、国際化などであったと思いますが、日本に特有なものはやはり「占領」と「戦後改革」だったのではないでしょうか。それは今日の日本の政治、経済、社会、文化の原点となっているからです。混迷する日本が21世紀にどのような道を進むべきか、われわれは何をすべきか。その回答を得るには、もう一度、戦後史の原点に遡り、そこに秘められた数々の可能性を再検証してみる必要があると思います。
今回、その再検証の手掛かりになる貴重な資料「プランゲ文庫」(雑誌編)が文生書院から販売されることになったことは、たいへん意義深く喜ばしいことです。
実は、私は1964年以来、占領史研究に携わっていますが、その間、数回にわたってメリーランド大学マッケルディン図書館を訪れ、当時、所管責任者であったフランク・シュルマン氏や奥泉栄三郎氏からプランゲ・コレクションの厖大な資料群を案内され、その有用性と価値を十分認識した一人です。そこには、検閲で掲載不許可になった谷崎潤一郎(『中央公論』1946.8)や平野義太郎(『改造』1949.1)の作品のゲラ、1947年の「2・1ゼネスト」の闘争メモや禁止に関する意見を述べた全逓東京地方貯金局赤羽分会機関誌『あかばね』の不許可になった部分、元内閣総理大臣竹下登が島根県の青年団長時代の「ビラ」なども含まれており、単に占領下の検閲実態を知ることができるだけでなく、現在では喪失してしまって入手困難な第一次資料が数多く含まれています。そういう意味でのこの「文庫」は、政治、経済、農業、教育、宗教、ジャーナリズム、文学、思想、映画、演劇、スポーツなど、あらゆる分野で日本人が当時、何を考え、どのようなエネルギーをもっていたか、その実態を知る重要な資料となります。
さらにこのような重要な資料であるにもかかわらず、アメリカでは財政的困難から、その整理保存の作業は進みませんでした。そこで私たち占領研究者なども応分の寄付をして、日米共同で整理保存の運動をしてきました。今回、このような形で利用可能になることは感慨深いものがあります。
ページトップに戻る
新興紙、地方紙の時代 早稲田大学教授 山本 武利
1996年から2年間、私は安部フェローシップを受け、占領期メディア検閲と戦時プロパガンダ研究でメリーランド大学とアメリカ国立公文書館へ行っていた。ちょうどその頃、同大学マッケルデン図書館のプランゲ文庫では、新聞のマイクロ化プロジェクトが進んでいた。私はその責任者であった村上寿世さんから相談を持ちかけられた。とくに彼女の頭を悩ましていたのは、大新聞の地方版の扱いであった。占領期の新聞は用紙事情の悪化で、2ページか4ページの狭い紙面であったのにもかかわらず、各地方のニュースを載せる地方読者サービスを行っていた。全国読者向けの紙面の一隅に、そのスペースはせいぜい4分の1ページほどであったが、地方ニュースが挿入されていた。検閲に出されたそれら複数の地方版が束になって、プランゲ文庫に未整理状態であった。それらをどう整理するかがプロジェクトの大きな課題であったわけである。
私はその史料価値を高く評価し、それの整理が研究者に利すること大であることを強調したが、良い整理法、分類法のアイデアはなかなか浮かばなかった。しかし今回できあがった目録を見て、利用しやすい形に整理、分類されているのを知り、関係者の長年の努力に敬意を表したい。たとえば『毎日新聞(大阪)』は21の地方版の他に8つの大阪市内版、つまり1日になんと29の紙面を作っていたことがわかる。
当時の全国紙の縮刷版はあるにはあるが、それらは現在と同様に東京の最終版を印刷したものである。その日の第1版から最終版が出来上がるまでに、現在も昔もニュースの書き換え、取捨選択がなされる。当時は大新聞の多くが事前検閲されていた。したがって最終版が出される前に消えた重要記事が少なくない。地方記事欄が当時の各地の情勢の重要な情報源であることは言うまでもない。
現在のプランゲ文庫の責任者である坂口英子さんが雑誌『Intelligence』第4号に寄せた文庫の現況リポートによれば、所蔵新聞数は18,047タイトルである。”終戦直後の日本の新聞をこれだけ多種大量に保存している機関がほかにあるだろうか”というのは、坂口さんの言である。私が代表になって現在作成中の占領期雑誌記事情報データベースは、プランゲ文庫の13,799タイトルの雑誌を対象にしている。この雑誌タイトル数よりも新聞の方が多い。どの国のどの図書館でも新聞のタイトルの方が雑誌よりも少ないのが普通である。
ともかくプランゲ文庫の新聞タイトル数がこれだけ多くなった一因は、地方版をそれぞれ丹念に整理し、1つずつカウントしたためである。またGHQが権力で全国の新聞と名のつくもの全てを検閲目的に集めようとしたこともあろう。しかしそれよりも重要な要因は当時が新興紙の時代であったためである。戦時権力によって強制的に1県1紙に統制された新聞が開戦前の名前で、あるいは別名で一挙に戦後復刊した。さらに新しい時代を新聞メディアで表現したいという新聞発行者が多かった。彼らは敗戦までは新聞にかかわったことのない人々であった。彼ら新聞発行者が津々浦々から叢生したのが、戦後の新聞界の特色であった。
これがプランゲ文庫の新聞群にも反映した。この新聞目録で東京発行の新聞は全体で2割強、大阪は1割弱である。現在に比べ地方の割合が大きかった。私の育った八幡浜市という人口5万の愛媛県の小都市を見ると、なんと23の新聞がある。小中学校新聞3紙、婦人新聞1紙、労働新聞1紙といった戦後の時代の息吹を感じさせる新聞が見出される。しかし大半は一般の商業紙である。現在、その市では一般紙は3、4紙しか出ていないらしい。権力のために戦時下嘘の報道を行った中央紙や県紙を嫌って、地元の新興紙を求める読者が多かったことがわかる。
ページトップに戻る
メリーランド大学・マッケルディン図書館の「プランゲ文庫」 ジャーナリスト 田原 総一朗
戦後、連合軍による日本占領下の日本の新聞・雑誌などが、具体的にどのような検閲を受け、どんな記事がカットされ、あるいはどのように変えさせられていたのか。
占領下の日本のメディアの実態を掴もうとする人間たちは、例外なくマッケルディン図書館のプランゲ文庫にいかざるを得なかった。
わたしが、はじめてプランゲ文庫のことを知ったのは、江藤淳が1982年2月”諸君”に”アメリカは日本での検閲をいかに準備していたか”というレポートを読んだときであった。このレポートは、”諸君”の連載をまとめて”閉ざされた言語空間”として、平成元年8月に刊行された。その後、何人もの日本人研究者がプランゲ文庫に通い、占領軍の検閲と日本メディアの対応についての著作を発表している。
ゴードン・プランゲは、連合軍(GHQ)の参謀第二部(G-2)の戦史室に六年近く勤務していた。そして1951年秋、サンフランシスコ講和条約が結ばれた後アメリカに帰国した。そのとき検閲資料を、米陸軍のコンテナー5百箱につめて、彼が勤務していたメリーランド大学に持ち帰ったのであった。雑誌約13,000種、新聞約16,000種という厖大な量だった。
江藤淳は、約九ヶ月のアメリカ滞在中に、週の半分はプランゲ文庫に通っていたそうだ。プランゲ文庫に通った研究者たちは、いずれも、並大抵でない苦労を披露した。
それにしても、検閲を行った側が、それが公になれば、言論表現の自由を標榜する国としては、具合の悪い材料を全部残しているのに、検閲された日本の新聞社は貴重な材料を全く保管していないのである。これは一体何と考えればよいのだろうか。
その問題はともかく、プランゲ文庫の新聞の検閲にかかわる全資材が、文生書院で全て手に入るようになった。メリーランド大学のプランゲ文庫に何十回、いや百回以上通って研究した先達たちの苦労に対して、もうしわけないような話だが、新しい時代になったのだと痛感する。わたし自身も利用させてもらう機会が多々あるはずである。
ページトップに戻る
プランゲ・コレクション所蔵 新聞目録 東京経済大学教授 有山 輝雄
メリーランド大学プランゲ・コレクションに所蔵されている新聞・雑誌・図書は、関係者の長年の努力によって目録がつくられ、マイクロフィルム撮影された。これによって、この膨大な資料群はようやく利用できることになった。いうまでもなく、現在プランゲ・コレクションとしてしられている、戦後占領期の新聞・雑誌・図書は、もともと占領軍の検閲を担当していた民間検閲支隊(CCD)が検閲用に日本の新聞社、出版社から提出させたものである。占領軍の検閲が終了した時点で、これら新聞・雑誌は不用となったが、資料的価値を認めたプランゲ博士によって、メリーランド大学に移送され、保存されてきたのである。
しかし、これら新聞・雑誌・図書は、たんなる検閲資料ではない。むしろ、敗戦後の社会を生きた無名の人々のジャーナリズム活動の記録として重要な意味を持ってきたのである。プランゲコレクションには、無論著名な新聞・雑誌も保存されているが、それ以上に貴重なのは、この時期叢生した名もない新聞社・雑誌社、村の青年会、住民団体、労働組合、公民館等が発行した、おびただしい数の新聞・雑誌・パンフレット等である。それらのほとんどは、日本の図書館等には保存されておらず、発行した当事者も恐らく保存していない。あるいは、発行したこと自体忘れてしまっているかもしれない。
敗戦後の紙もインクも印刷機械もない状況で、無名の人達たちが、自分の意見、自分の体験を自らのメディアによって表現しようとした。それらの多くは、粗末な紙にガリ版刷りなどで印刷された、きわめて素朴なメディアであるが、そのどれひとつとっても、人々の旺盛な表現意欲、自分の考えを自らのメディアで表現する喜びが横溢している。かつて鶴見俊輔氏はジャーナリズムの原義は「市民」が自らの体験を記録していく活動にあることを強調したが、これらの新聞・雑誌は、そうした意味でのジャーナリズムを復活、開花させた活動であったのである。言い換えれば、蒼氓の言論あるいは草の根のジャーナリズムと言ってもよいだろう。
マス・メディアがますます巨大化し、しかも戦後の体験が風化してしまった現在、敗戦後の草の根のジャーナリズム活動もほとんど忘れ去られてしまった。しかし、そうした歴史健忘症的状況であるからこそ、戦後の体験の意味をあらためて考えることが必要である。われわれ日本人が自らの活動を知るのに、われわれを統制したアメリカ占領軍の検閲資料を頼りにせざるをえないというのも大変な皮肉であり、歴史健忘症の表れであるが、そのことをふくめ、プランゲ・コレクションの資料を様々な角度から読み解く必要性は高まっているのである。
ページトップに戻る
プランゲ文庫・新聞コレクションによせて 上智大学名誉教授 春原 昭彦
初めてメリーランド大学マッケルディン図書館を訪問してから四半世紀以上がたつ。そこで出会ったのがプランゲ文庫であった。戦後の新聞史を眺めるとき、占領下の検閲政策とその実態は一つの謎であった。その原資料がそこにあった。
1970年代に入るころから、占領下の文献、資料がアメリカにあることが判明するとともに研究者や政府関係者が調査に訪れ、GHQの政治改革から農地改革、教育改革などの方針、政策がまずその資料とともに日本へ紹介されるようになった。それにつれて出版検閲関係の実態も次第に明らかになってきた。
最初行って驚いたのは、まずその膨大な量であった。新聞のタイトル別の整理はほぼ終わりに近づいていたが、大変な作業であることは一目で了解できた。さらにこの大量の新聞を個々に調査する時間も並大抵のものではないことを痛感した。第二は資料の保存である。新聞の紙質が悪いことは周知のことだが、とくに戦後の紙は劣悪であった。今でこそ日本でも酸性紙の劣化を防ぐ対策をとっているが、この時すでにアメリカでは、そのためのボックスを作って、これらの新聞を入れているのを見て、感心したことを思い出す。
今回のマイクロフィルム版はこの二つの悩みを解決する。これらの新聞原資料を調べにわざわざ遠くワシントン郊外にまで行かなくてもすむ。研究者にとってこんな便はないであろう。第二は新聞の内容がマイクロになっているので原紙の保存にも問題はない。
つぎにこの新聞の価値である。プランゲ文庫の新聞には、完全な揃いというものはほとんどない。だがいろいろ特色がある。第一に占領期間中の全国(沖縄を除く)の新聞が含まれている点である。戦後のこの期間は日本の新聞の歴史の中で、もっとも数多く新聞が創刊された時期だと思うが、国会図書館の設立前ということもあってか、この時期の新聞の保存、管理は非常に不完全である。その面でこれらの新聞の存在価値は非常に大きい。第二にその新聞の種類の多様さである。一般新聞だけでなく特殊専門紙、各種組合の機関紙、学校新聞、文化団体の新聞など枚挙にいとまがない。さらに一般紙でも県版で揃っているもの(北海道、中部日本や西日本新聞)もある。第三に新しい新聞の中に第一号が非常に多いことで、このことはこれらの新聞の利用価値を広めることにもなろう。
創刊号には創刊の辞がだいたい載っている。これを見ると当時の人々が、日本の将来に何を望み、期待しているかがわかる。うたい文句は平和国家、民主国家、文化国家の建設である。これらの新聞からわれわれは戦後の人々の反省と期待を読み取ることができる。また政治、組合、地域、文化、その他各種の新聞から、戦後この時代の人々の問題意識と現状を知ることができよう。
最後に付け加えておくと、戦後の検閲をもっとも明確に示しているものが通信社のゲラ刷りである。とくに1948年7月の事前検閲廃止までの通信社のゲラにその痕跡が明瞭である。またほとんどの資料が1949年10月前後で終わっているのは事後検閲の廃止で納本の必要が無くなったからであろう。歴史の跡がここにも見られる。
ページトップに戻る