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BUNSEI SHOIN CO.,LTD

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文生書院の本

復刻版(初期在北米日本人の記録)

第二期布哇編:解説


第二期布哇編 解説

〔通巻:布哇編:10-24冊〕

 

10 和文書名『オハイの蔭』  ISBN978-4-89253-337-2
筆者の浅野は、大正6(1917)年7月に渡布し、在ハワイ7年有半の間に少なからず散文を書き留めた。本書はそうした文章から23篇(基本的には執筆年月日を付す)を選んで編んだものである。本書発行の時点で浅野はすでに帰朝していたが、印刷所および発行所はホノルルであった。浅野は何故に帰国したのであろうか。
その鍵となる「日本教育界の巨人を憶ふ」(269頁)は、著者の恩人であり知己であった中村春二への鎮魂記である。中村春二は若くして大正13(1924)年2月21日逝去。その悲しい報に接し、浅野の帰国は決定的なものとなったようである。結果的に浅野は中村の教育精神を引き継ぎ成蹊高等学校々長となった。その頃、池袋と云えば成蹊をすぐ連想するほど有名になっていた成蹊学園は、岩崎小弥太や今村繁三の助力を得つつ成蹊を強力に立ち上げた。「平仮名ひろめの主導者」で知られる中村春二は静岡県の名門に生まれ、明治36(1903)年東京帝国大学文科の国文科を卒業している。大学卒業後暫く東京高等師範付属中学で教鞭をとった後、学校当局の無理解を憤慨しここを去って厳父の遺された全財産を投じて成蹊学園(小学・中学・女学校・実業専門学校)を創立した。これが成蹊に絡む中村と浅野の強い絆の一端であったのだ。情熱的な名物校長が二代続いたことで、日本でもハワイでも「成蹊」は語り草となったものである。なお、今回の復刻に当り、表紙をカラー印刷で原装再現した。その上部にハワイの特産オハイの大木二本が描かれている。私が想うに、この二本は「日本=ニホン」を表象しているのかも知れない。話は飛ぶけれども、チューリッヒ大学に聳える二本の杉も、日本からの移植に成功した証しらしい節がある。巻頭に堂々の著者肖像写真あり。
英文書名:On the Shady Side of Ohai (Monkeypod) Trees

 

11 和文書名『ハワイの印象』  ISBN978-4-89253-338-9
表紙が美しい。この表装は著者自身も大いに気に入ったもので、作画者を明かせば、本野精吾画伯(京都高等工芸学校教授)ということになる。同全集ではこの美術感覚が全く掴めない。巻頭に杖姿の著者と武雄の肖像写真(ホノルル・昭和8年4月5日撮影)を掲げる。ややくどいが暁烏敏は、「あけからす・はや」と読むべし。著者の布哇渡航歴は、昭和4(1929)年4月12日横浜出帆、21日布哇到着、5月18日にカリフォルニアに向かっている。これが第一回目の旅である。第二回目は、昭和8(1933)年の2月1日に横浜をたって、9日にホノルル到着、4月18日にホノルルをたって27日に横浜に帰った旅である。この二つの旅から軽快な『ハワイの印象』が生れた。強いて云うなら、著者の息子の武雄がハワイのヒロ市の東本願寺開教使として赴任した際の、餞別記念出版であった。実際には出版が遅延したため、息子に持参させることは出来なかった、という。
さて、本書の内容の形式は、講演録、論文、詩歌、紀行記(主として航海録)となっていて、完全に読者を作者の相に誘ってくれる。ユニークな高僧の語りである。論文の中には、「二重国籍問題」、「アメリカ人とは誰か」、「ボストンとニューヨーク」を再録、その眼識の広さと深さを吐露したものだ。原則的に執筆年月日が入っており、各点の具体的な時局性・情報性も極めて高い。克明なメモを頼りに文章化したものと察せられる。巻末には「暁烏敏主要著作目録」があって、彼の文章力と発想の豊かさ・執筆分量を如実に示している。石川県の住民で、出版社の香草舎も彼の経営するものであった。なお、この著者には自身のパンフレット・シリーズの中に『アメリカの印象』もあるので付言しておきたい。 英文書名:Impression of Hawaii

 

12-13番は未刊です。
14 和文書名『布哇労働運動史 前』   ISBN978-4-89253-392-1 
本書は、その内容と歴史においては本シリーズ 布哇編第2冊の『明治四十一 - 二年布哇邦人活躍史』(一名 大罷工回顧史)と相通じるところがあり、かつ、見解の幾分対立・交錯するものである。その理由の一端は、片や内地出身の日本人で、片や沖縄出身の移住者たちであったからであろう。当時、「沖縄県人」ということがハンデキャップだった、とは沖縄出身の古老たちの述懐であるし、そうした事実を示す幾つかの事件すら検証することができる。そもそも、『実業之布哇』(同社)は、「沖縄県人は全島に於て一般日本人社会から差別され軽蔑されてゐた。本誌の一つの目的はその不都合の偏見を打破するために発刊されたもの」である(社主の言葉・15頁)。今回の増給運動は、労働団体の組織化から始まり、1920年を頂点に実力行使時代、実績整理時代と動いた。この間、顧問格で根来博士(主として文書の英訳担当)と現行各新聞社が名を連ねたが、運動の途中で顧問団が総辞職した経緯が記録に残っている。著者の堤は「布哇労働同盟会」の書記役であったが、もともとは『布哇毎日』の記者であった。序文「著者に寄す」を書いた早川治郎は、先輩で同志である著者を本書編纂の最適任者と断言した。当時まだ根来法学博士も健在で、明晰な論調を『日布時事』英文欄などに草し、耕主組合の後進性(思想)を「約二百年計り時代に後れて居る」と糾弾した(383頁参照)。本書には、残念ながら、扉・標題紙・目次欄・奥付け等々に曖昧な部分がある。「上」といってみたり、「前編」と云ったり、用法が混乱している。復刻に当たり、第6版を使用したが、初版の出た同じ年の同じ月に、その15日初版以来毎日各版が6版まで発行されたという表記はどうみてもいただけない。そのうえ、本書の後編予約募集記事が巻末にあり、概目まで掲げたうえで「・・・印刷製本が完成するのは七月中旬(1921年)であります。・・・・予約金を添へて御申込下さい。多少考へる所があるので予約以上は一冊も発行いたしません」。この後編は500頁ほどの出版企画であったが、私の調査した限りでは書誌情報は掴めなかった。多分、陽の目を見なかったのであろう。
歴史写真には後日譚がある。本書巻頭の写真「各島代表者会議」は期せずして『市民 沖縄移民六十周年記念号(1900年-1960年)』の最終頁(但し頁付けナシ)に転載された。この記念号は、「沖縄のコロンブス」こと当山久三を「沖縄移民の父」(The Father of Okinawan Immigrants) と位置づける意図があったようだ。ところで、この記念号の上記写真説明は「故人」を識別し、最後に「他は姓名不明」と結んでいる。想うに、この転載写真はナマの写真を用い、当時の生き証人が新たに説明を加えたものである。若し、上記本書を見る機会が事前にあったなら、このような不具合は起らなかったはずである。もっとも、写真のオリジナル版を使用したのであれば、厳密には「転載」ではなかったのである。嗚呼。
英文書名:History of the Japanese Labor Movement in the Hawaiian Sugarcane Farmland in 1920, Part 1

 

15-1 和文書名『布哇島一周』  ISBN978-4-89253-339-6
巻頭に寄せ書きと地図二葉(布哇島と布哇群島)などあり。内容は、ヒロ(第一項目)から始まり、ホノルル及び各島の概要(22項目目)で終っているハワイ旅行案内である。附録は10項目あり、「日本移民と変遷」、「布哇出生日本人問題――附日本語学校と日本人寺院」、(日本人が関係する)「重要なる布哇の産業」等々を含む。本文中に組み込み写真多数。編纂者の一人林三郎は医師、印刷者の加藤十郎はコナ反響社(布哇島)の持主であり、東京・麹町の東邦社印刷所の社主でもあった。広告多数も注目しておきたい。英文書名: A Travel Around the Hawaii Islands

 

15-2 和文書名『布哇』 ISBN978-4-89253-339-6 (合冊の為に上記と同じ)
表紙のデザインがなかなか愛らしい。著者の瀬谷正二は、約6年間ハワイの日本移住民監督官に任じていた人。巻頭に「題評」という田代安定筆の長文(29頁分)があり、次に著者緒言と続く。当時日本人居住者は群島内に2万人といわれ、最大の人種であったことは周知の事実である。このことを背景におき、著者は「布哇帝国」の将来、帰属関係如何の問題に思いを馳せる。豆粒大の群島の、その戦略的立地条件の重要性を脳裏に置きつつ、海岸・港湾・海流・植物・動物・人種・言語・教育・宗教・政治等々を29項に分かって、比較的克明に記述している。頁の欄外に、必要に応じて「小見出し」を使用するなど、編集上の工夫も講じている。年表(国史抄)などの部分に翻訳調が残る。今日的見地からみると、随所に差別用語や問題表現もあるが、今や本書も歴史的な記録であるから、その点は諒とせられたい。附録には、「人口減損の原因」と「支那人 排斥の始末」との二題があって、こと柄の重大性を説いている。折り込み布哇国全図もあり。英文書名:The Hawaii

 

16番は未刊です。
17 和文書名『実業之布哇 創刊三十周年記念号』 ISBN978-4-89253-340-2
実際問題として本書の書名は断定し難い面がある。五色刷りの表紙(「鷹」と「星」をモチーフにした大森照成画伯作品)は、『実業之布哇 創刊三十周年記念号』を書名としている感であるが、折り込みの目次欄では『ハワイの思ひ出』が書名であるようでもあり、扉や奥付けはない。だいたい、本書は極端にあるいは意図的に1941年の月日を削除または伏せたように察せられる。日米決戦が目の前に迫っており、自主検閲とハワイ当局(軍部)の検閲が眼に見えるようである。むろん、内容は詰まるところ、親米論調であり、少なからぬ米軍指導層の諸寄稿が見える。それにしても、随分と多彩な人士に寄稿を求め、沢山の広告を掲載し、多数の写真も入れたものである。私見では、皇紀2600年奉祝と「開戦切迫」との記事内容が交錯した一冊となったように考えられる。英文論壇記事60頁は基本的に日本語の訳文が付いていて、一見する限り翻訳はかなり正確である。英文欄によって私は、本書の書名が The Jutsugyo-no-Hawaii であることを確認し、これが第30巻35号([1941年]9月19日発行号)であることを知った。その後、一定の期間を要して読者の手に渡ったものと察せられるが、定価表示もなく300頁もある本書が無料で配布された可能性も考えられる。
最後に本書の政治的・戦略的特色にもう少しく触れておきたい。戦雲急を告げていた日米開戦の直前であり、「ハワイは今空前の非常時である」(巻頭言)という認識から本書が生れている。日米双方の各界名士に談論風発を誘い、非常時の嵐の渦中で「直言的」な情報を集めた節がある。日本の雑誌『改造』や米国誌紙などの記事を転載したかと思えば、書下ろしも豊富。社説的に「日米戦争にならぬ理由」が巻頭にあり、別の頁で藤井整(加州毎日新聞社々長)は、教育勅語の精神をして、これぞ「米化運動」の精神そのものと説き(105頁)、後々に大物となる湧川勝三(当時在米帝国大使館嘱託・元『実業之布哇』英文欄主幹)の、「日米の平和親善の為め言論機関の奮闘を望む」は、警鐘的所見にして説得に富む(147頁)寄稿となった。湧川の英文原文は Facing Unpleasant Realities (Ernest K. Wakukawa) と題され、本書英文欄(25-26頁)に残る。実業之布哇社は米本土ロスアンゼルスに「南加支局」を設け、重鎮仲村権五郎(当時米国中央日本人会々長)を据えていた。仲村は本書に、「非常時局と米国の恩義『私は大学で真のアメリカを知った』」を載せている(129頁以下・原文は英文欄39-40頁)。これは仲村が1941年6月25日に日系市民協会主催「対米国忠誠応酬大会」で行った講演 (Speech given at a loyalty rally sponsored by the JACL of San Gabriel Valley in El Monte, CA) に基づいたものである。この種の発言は、戦後のGHQ稀代に多くの滞米経験者の口から出たが、謂ってみれば、ご都合主義的なものが多い。時点的に仲村は、明日にでも「敵」となるかも知れない米国を、実に冷静に観察している。
英文書名:30th Anniversary Issue of the Jitsugyo no Hawaii (The Jitsugyo no Hawaii : 30th Anniversary Edition; Featuring Timely Messages to Japanese People in Hawaii from Army, Navy and Civilian Leaders)

 

18番は未刊です。
19 和文書名『本派本願寺布哇開教史』 ISBN978-4-89253-393-8
本書は今村恵猛(布哇開教総長・布哇別院輪番)開教監督時代の記念碑的な書物で、今村は初代監督里見法璽を継いだ二代目監督であった。共に福井県下の名刹(寺)から派遣された高僧であった。正式開教第一年は1897年(明治30年)と記録される。従って、本書は同派開教20周年に臨んだ史要の記念公刊とも云える。題辞に大谷光瑞上人(前大法主)および澁澤榮一(男爵)とが並び、題詠に大谷?子の方(婦人会総裁)と利井明朗師(執行長)、序文に大谷光明師(新法主)・沢柳政太郎(文学博士)・富士川游(文学博士・医学博士)・高楠順次郎(文学博士)・諸井六郎(帝国総領事)L・E・ピンカム(布哇県知事)の名がみえる。附録は、「開教使生活」(開教使生活と寺院生活・布教場・布教・雑務)と「歴代開教使一覧」(すでに沼田恵範の名あり・沼田は後に実業家としても成功)の二題。目次欄はそれ自体一覧してみるに値する。歴史写真・信徒肖像写真等多し。今回の復刻に当り、東京大学大学院総合文化研究科附属アメリカ太平洋地域研究サンター所蔵本を用いた。ご協力に衷心より感謝を申し上げます。英文書名:History of the missionaries of the Honpa Honganji Temple in Hawaii

 

20番は未刊です。
21 和文書名『布哇群嶋誌 第壱巻―加哇篇』 ISBN978-4-89253-341-9 
このシリーズは当初4巻で完結することを志したが、その後の継続出版事業は不詳である。奥付けに出版年月日が記されていないのは遺憾である。察するに本書出版時点は 1916年末もしくは翌年前半と見られ、その時点で「太平洋の楽園」(The Paradise of the Pacific) に関する日本語文献の雄と云える地誌である。和文でも英文でも手ごろな案内書が無かった時代の、内容的に重いカワイ嶋地誌案内書とみれば良い。
本書出版に当っては、次のような英文名著を参考にしている。
歴史関係:Alexander, W. D. 1891. A brief history of the Hawaiian people. New York: American Book Co. and Documents from Kauai Historian Society
動植物関係:Bryan, William Alanson. 1915. Natural history of Hawaii, being an account of the Hawaiian people, the geology and geography of the islands, and the native and introduced plants and animals of the group. Honolulu, Hawaii: [Printed for the author by] the Hawaiian gazette Co.
<上記はいずれも書誌的に奥泉が再調査・再確認したもの>
グラビア写真(カラー写真含む)・共著者の序・例言・目次欄と続く。内容は、地理・歴史・教育及宗教・産業・交通及其他と進み、適所で各地日本人の消息を論じている。第6篇は「加哇人物略伝」となっており、その前半は白人名士列伝、後半は日本人名士50人程を列挙している。本書によれば、1912年当時で加哇嶋には日本語学校が20校、生徒数1368名であった。リフェ小学校(官立系)が嶋内最古の歴史をもち、校長は本書共著者の一人三輪冶家(福島県出身)であった。同夫人も教鞭をとっていたことが判明する。最大手はリフェ平和学園(宮崎匪石園長。・本派本願寺派)で、児童数は約200名であった。記録に依れば、1912年1月に布哇中学校長角田柳作が学事視察のため来校している。角田は同嶋に一週間ほど滞在して教育講演シリーズをこなし、父兄や有志や青年たちを大いに啓発した。志賀重昴や帝国総領事永瀧久吉の巡嶋も続き、希望を与えた事や教育行政改善の面で大いに役立った。
本書発行時の嶋の定期刊行物は二つ。一つは英文の The Garden Island で、もう一つが日本文の『加哇新報』(旧『加哇週報』)であった。共に週刊で株式組織であったが、元来両紙は同一出版社のものであった。和文欄で功績のあった芝染太郎は1906年ころ離島してホノルルに転進した。そこで芝を継ぐ形で本書の共著者の一人福永虎次郎(号は楓舟・山口県出身)が『加哇新報』を継承したという次第である。同社のみならず、各社は1000人の新聞購読者を得るのに四苦八苦していた時代のことで、副業も兼ねて図書出版も手がけていた。本書もその良い例である。なお、巻末には時代を伝える多数の広告あり。英文書名:The Hawaii Islands. Vol.1: the Kauai Island

 

22 和文書名『布哇日本人発展写真帖』 ISBN978-4-89253-394-5 
この種の写真帖は、ハワイにおける日本人の可能性を表象で以って説明したことに他ならない。簡潔なる写真説明は、日本人がすべての方面に如何に発展しつつあるかを確証してくれる。当時のメディアの中では贅沢とは云わないまでも豪華な出版物であった。そのため、発行側でも資金的に苦労が多く、寄付金募集の成否が鍵となるのが実態である。その眼線でみると、「布哇日本人発展写真帖賛助者氏名(ABC)順」と「布哇発展写真帖賛助者氏名」(36-37頁)は多大の興趣を覚える。両者の氏名は殆んど重複しており、圧倒的にホノルル市在の名士である。ホノルル市以外ではヒロ市の数名を数えるに過ぎない。昨今、日本からハワイに出かける人は少なくないが、その90%以上がハワイ=ホノルル市と思い込み、その周辺以外はほとんど知らないとも囁かれる。それと同じように、「布哇」と一口に云っても一定の基準で各島各地を描出しているわけではない。その点、報道の陰とも言われる処を見落としてはならない。本書の編集方針の場合、ホノルル市内は「超名所・名士」の他は被写体のABC順、各島に至っては地名別とし、写真が原稿として本書編集部に到着した順で掲出している。 この年鑑で角田柳作の動向を探ってみる。御大に今村恵猛総監をいただき、角田は布哇仏教青年会顧問・学務部々長・文書部々長の任にあった。同会は本願寺系の団体で会員数300名を擁し、月刊機関雑誌『同胞』を刊行中であった。金曜会では発起人12名の一人として活躍した。この金曜会は、ハワイに寄港した著名な日本人に協力を求めて、在留民一般を対象に無料公開講演会を開催した。この活動は、盛会にして啓蒙的、意義のあるものだった。今その講演者をみると次の如くである。
新渡戸稲造(初回・日米交換教授・演題「上陸所感」)島田三郎(初回・代議士・平和運動のため渡米途上・演題「在留民諸氏に告ぐ」)幣原坦(文学博士)井上円了(文学博士)志賀重昴(早大教授・前後2回・招聘に応じ数回の講演・帰朝後布哇紹介に甚大の努力)河上清(英文『日米問題』著者)竹越與三郎(衆議院議員)嘉納治五郎(高等師範学校長)江原素六(貴族院議員)井深梶之助(神学博士)服部綾雄(政治家)添田寿一(法学博士)神谷忠雄(実業家)永瀧久吉(総領事)末廣重雄(法学博士)佐藤昌介(農学博士)姉崎正治(文学博士)一橋倭(スタンフォード大学講師)波多野傳四郎(牧師)綱島佳吉(牧師)神戸正雄(法学博士)海老名弾正(牧師)日置黙仙(曹洞宗名僧)小嶋久太(実業家)。
揮毫は澁澤榮一男爵、尾崎行雄司法大臣、武富時敏大蔵大臣、諸井六郎総領事、山脇春樹大博参事官が寄せ、序文は大隈重信総理大臣侯爵、栗津清亮法学博士、鶴島半蔵布哇新報社々長(元布哇日々新聞社々長)と続く。この中で鶴島は本書の版権所有者兼発行者の米倉彦五郎と深い縁があった。米倉はかって鶴島の配下にあり、同紙の留学生として Natural History of Hawaii とあるから、大正5年にタイミング良く寄せたことになる。??? 英文書名:Pictorial Book of the Development of Japanese in Hawaii

 

23 和文書名『布哇日本人年鑑 第十三回』 ISBN978-4-89253-395-2 
本書本回は口絵に新任の駐米大使佐藤愛麿等々の名士肖像写真を掲げ、次いで在布同胞人物紹介を試みた。本文記事も多岐に亘り項目建ても細かい。巻末の附録は「在布日本人々名録」で嶋別の各地地名のABC順にまとめ、不十分ながらも索引機能を果しめた。各人の住所表示は無いが職業と出身県名を摘出しているので面白い〔約220頁〕。
ついでにハワイの新聞および雑誌などを見てみよう。『布哇新報』(ホノルル一帯・本書の出版社・朝刊8頁・社長鶴嶋半蔵・主筆木村芳五郎・現行邦字新聞中で最古・既に6千数百号に達す)『日布時事』『布哇報知』『太平洋新聞』『ホノルル商報』『実業之布哇』『衛生時報』『オアフ時報』『布哇商業時報』『家庭雑誌』『交差点』『洋島』『布哇年鑑』『布哇日本人年鑑』等々(詳細は353頁参照)。
本書にも広告が多く、それらは青紙の部(30余件)、赤紙の部(約40件)、黄紙の部(約20件)、特別の部(約20件)と4区分されている。今回の復刻版においては、用紙を区別することなく本文 本体の用紙に統一した点、お断りしておきたい。
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『ハワイ年鑑』と『日米年鑑』点描『ハワイ年鑑』(日系移民資料集 第IV期)は2008 年から2010年にかけて日本図書センターが復刻した全14巻セットである。原書の正式書名は『日布時事布哇年鑑並に人名住所録』(Hawaiian Japanese Annual & Directory・米国連邦政府登録済出版物)といい、昭和年2年(1927年度版)より昭和16年(1941年度版)までホノルルの日布時事社によって編纂・印刷。発行されたもので、内容的には日布交流有史以来昭和改元までを初巻(復刻版第1巻)とし、1940年10月ころまでの記事・情報を1941年版(復刻版14巻)とした。この間、編集方針と内容要目はかなり一貫性を保ち、附録の「布哇日本人人名住所録」(Japanese Directory of Hawaii)も(副)題名に変更はなかった。 私の関心事からみて一つだけ情報を紹介しておこうと思う。昭和の初め既にホノルルには(ハワイ)日本人大学倶楽部が組織されていた。これはハワイおよび米本土の大学を卒業した日本人の組織で、会員数は約50名であった。陣容を覗くと、顧問格に原田助(布哇大学教授)・毛利伊賀(医学博士・医院経営)、会長築山長松(弁護士)、副会長中川清(医学博士)、書記以下の人物に時政英道・山口七郎・山県太助・中田由松・河地健助・藤本義一の名を確認できる。このうち、原田助が77歳で1940年2月に京都にて亡くなられている。(本年鑑「冥友録」欄より)。 『日布時事』の創刊は明治28年10月に遡る。もっともその初期の紙名は『』といい、石版刷小形4頁の週2回刊紙であった。明治23年に活版印刷となり、間もなく日刊夕刊紙となっている。明治39年に相賀安太郎が社長兼主筆となり、同年11月『日布時事』と改題した。大正8年(1919)より英文欄を新設、はじめは1頁、後に4頁まで拡大した。ハワイで最古級・最大紙に発展し、1940年代初頭には本紙のほか、上記年鑑や公認の『日本人電話帳』(年2回)を発行していた。その後、日米開戦となり、ハワイ日本人社会のメディア界の事態は一変した。 上記年鑑に匹敵する米本土の同類年鑑に『日米年鑑』(サンフランシスコ・日米新聞社・第1<明治38年1月1日発行>から4号<明治41年>まで『在米日本人年鑑』・英文書名ナシ・附在米日本人住所姓名録)があり、第12号(大正7年・産業号)まで刊行されている。幾多の理由があって、内容と体裁の面で特に進歩・進化は見られなかった。例えば、初刊号の住所録でシカゴ地区は1件しか記入が見られないし、最終号ではかなり出版が遅れ、内容も1918年6月で原稿を打ち切っている。とは云え、本年鑑の資料価値そのものは、大いに記録に残るものと云わねばならない。この一連の年鑑も、『日米年鑑』(日系移民資料集 第ⅲ期)の統一タイトルの下に2001年から2002年にかけて日本図書センターから復刻された(全12巻セット)。同センターには敬意を表するものである。なお、最終巻は「産業号」であって、常識でいう「北米年鑑」の内容にはなっていない。加えて、附録の住所録も分離された。従って、同社の『日米住所録』の1919年版がより一層「年鑑」(Year Book or Almanac)的な内容となっているようである(未確認・不発かもしれぬ・調査要)。幸い、私共は1922年の同社の最大出版事業の成果『在米日本人人名辞典』を本シリーズ北米編7として復刻することが出来た。約750頁のこの大作は、『日米新聞』の定期購読者台帳も活用したものと察せられ、正確にして空前絶後、合衆国全土・英領加奈陀・墨西哥居住者をも掲載者分布範囲とした。『日米年鑑』は詳しく見てゆくと、住所録の表記も一様ではなかった。第5号では「在米国日本人住所姓名録」<国を追加>となっており、第6号には「住所録」の附録はない。第11号は「加州在住日本人農業者姓名録」(1914年12月調査)となっている。第2号から英文書名 The Japanese American Year Book が付き、各号1頁には「日米社発行」ともある。同じように、新聞も『日米』とも『日米新聞』とも云われる。その英文紙名は一貫してThe Japanese Americanであった。
英文書名:Annual Directory of Japanese in Hawaii, 13th Edition (1916)

 

24 和文書名『布哇その折り折り』 ISBN978-4-89253-396-9

著者相賀安太郎(号は渓芳)は1873年東京に生まれ、東京法学院で修業し、1896年3月に渡布した。表紙やカットを古川章画伯が丹念に描いている。本書の内容は時事問題等の短評集で、1916年8月より1920年8月までに『日布時事』(毎回日曜日)に掲載されたものから選んでいる。概ね、短文で構成されているため深さはないが、上記年代の社会の諸相等を知る上で、便利な書物となっている。巻末に同著者の出版広告『鮮満支の初旅 韮の匂ひ』が見える。相賀には上記のほかに、私家版の「切り抜き帖」や「訪日随想 1952」(スクラップ・ブックで新聞記事69篇を収める)の存在が確認されているほか、『日満を覗く』(1935)、『鉄柵生活』(1948)、『五十年間の布哇回顧』[1953)などがある。 英文書名:A Rough Sketch of Hawaii

 

第一期布哇編の解説はこちらからご高覧下さい

第1期-第4期までの内容解説は徐々にではありますが進めてまいります。準備が出来ました時点でTwitter等でご案内申し上げます。

又,まだ一部にしか準備が出来ておりません各冊の目次も,徐々にではございますが,PDFにてご高覧頂けますように準備いたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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