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BUNSEI SHOIN CO.,LTD

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文生書院の本

復刻版(初期在北米日本人の記録)

第一期布哇編:解説


第一期布哇編 解説

〔通巻:布哇編:1-9冊〕

1 和文書名 『新布哇』     ISBN 4-89253-225-8
揮毫四題の次に福本誠(号は日南)の「新布哇叙」があり、文章中で百年後の日本人総人口を試算している。本書が出た明治35年現在で日本の人口は約4400万。百年後の総人口は約一億人と見積もっていて面白い。この間の日本人の海外進出は如何?本書は藤井秀五郎(号は玄溟あるいは石童・『ヒロ新聞』主筆・日本の新聞『日本』の特別通信員兼任)の前書の改訂増補版で、初版に関する書誌的明記は本版にないが、カリフォルニア大学バークレー校図書館の情報によると初版は明治33年に上梓された。写真は巻頭グラビアと本文中に肖像写真の質の良いものがある。前者の主なものは、布哇全図、日本帝国領事館、西本願寺別院、日本人小学校等々である。本文は総論にはじまり、地理・歴史・教育・宗教・風俗・衛生・移民などと細かく続き、日本人社会の固有情報へと移ってゆく。第20章(文苑・695頁以下)は、本書出版の目的に照らすと、やや唐突な内容という感じ。ただし、これらの漢文散文や漢詩は「跋」や「あとがき」に代わる内容の体験者記録となった。附録「布哇日本人出身録」(追加別頁建てを含む)は、職業別(医術家・宗教家・商業家・各業列家)に分類され、その下で人物情報や肖像写真が紹介されているのが特色。広告あり。頁付けに難(不統一)あり。 英文書名:New Hawaii : The Directory of the Japanese-Hawaiian  pt.1-2

 

2 和文書名『明治四十一-二年布哇邦人活躍史』(一名 大罷工回顧史)
明治期のハワイ日本人労働運動史の金字塔といえば本書をおいて他に無い。賃上げストライキ事件の歴史的重要性と著者根来(米国法学博士)の体系的な論述とが本書の価値を著しく高めている。事件は本国帝国政府を揺るがしたものでもあり、明治18年の一回船移民の月給15ドルが明治39年に至るまで、20年間の間労働賃金は実に僅かに1ドル増加を見たるのみであったのだ。その過酷な状況下で、移民会社等々の悪弊を打破するために、明治39年の改革および増給、さらに明治44年の増給獲得は、実に在留日本人奮闘の結果であった。増給運動は上々で、前回に月2ドル後回で月4ドル50セントの増給を実現した。その裏には「革新同志会」が結成されたり、地元の邦字紙や英文紙などを巻き込んでの熱論が交わされ、白人社会からの理解と支持があったのである。その経緯を書き遺したのが本書の内容に他ならない。グラビアと主要人物写真は極めて貴重である。附録に、「増給運動費寄付者氏名表」というのが載っている。これもまた、意外と史料価値が高い。いわゆる通常の奥付けはなく、 広告多数を載せる。なお、根来源之には既に、『言論の自由』、『布哇法規類集』、『布哇邦人労働者増給論』、『米国憲法』の著作があった。  英文書名:Japanese Activities in Hawaii During the 41/42 Year of the Meiji Period     ISBN 4-89253-226-6

 

3 和文書名『布哇日本人発展史』  ISBN 4-89253-227-4
揮毫は海軍大将出羽重遠の「国の平和と発展とを保証寿るものは只力あるのみ」、前布哇総領事永瀧久吉「須知」とであり、序文は布哇領事有田八郎と粒揃いである。有田は、本書をして「日本人に関する空前の好著たり」と言わしめた。私も同感である。折り込みの布哇地図(カラー印刷)一葉あり。貴重な歴史写真が豊富であるのは、恐らく著者の森田栄(愛媛県出身・米領布哇県オアフ島住民)が有能な写真師で、発行所「真栄館」は彼の経営する写真館の別看板であったことを想えば、充分に納得が行くというものである。附録は「漂流談」とあって禁転載とも。内容は中浜万次郎一行の漂流関係文書集である。本書は大正4年の出版物で、明治元年の出稼ぎ布哇渡航から数えて彼等の「50年記念史」でもあった。奥付けに「正価参弗」とある。英文書名:Development of the Japanese in Hawaii

 

4-1 和文書名 『布哇活動の大和民族』 ISBN 4-89253-228-2
大正6年の時点で著者兼発行人の武居熱血は、ハワイ総人口の約5割を占めた日本人とその社会状態を摘記し、各島写真の部と記事の部とに分けて一冊とした。前者は目次欄で「風景・植物・学校・精糖所等の写真」といっているが、実際には人物写真が圧倒的な分量となっている。記事の最後は「著者の眼に映じたる壱萬弗以上の成功者」となっており、それなりの「成功組」の実態を紹介している。本書の印刷は日布時事社が担当したこともあって、『日布時事』紙の一大広告も載せている(他の新聞広告はひとつも載せていないところに注目・当時ハワイの新聞雑誌社数は26社)。英文書名:Progressive Japanese Race in Hawaii

 

4-2 和文書名 『布哇開国史』   ISBN 4-89253-228-2    上記と合冊です
編者の橋本花村によれば、1918年当時で、従来からハワイの歴史に関する日本語の通説的な良書が無かったので、奮発して本書を自身でまとめたということである。編者は種本(たねほん)数点を明かしつつ、文章を飾らず歴史の事実を詳細にかつ広範囲に亙って述べている。日本人に関する記述は殆んど皆無といって良い。本書の校訂者は布哇便利社編集部で発行所は布哇便利社出版部(ホノルル)であった。同社は当時かなり手広くビジネスを展開していた会社で出版業も兼ねていた。同社の出版物に注目すと、『布哇お伽噺』、『日英布会話書』、『布哇西洋料理書』、『布哇叢書』などを出していた。その第1編は『書斎学校社会』(角田柳作著)、第2編は『若き主婦の為に』(赤星千代子著)、第3編は『夕日のない島にて』(神田謹三著)、第4編は『布哇の動物と植物』(土屋泉石著)と続いていた。著者はいずれも布哇生活体験者・居住者・斯界の権威であった。一方、『通俗家庭医典』や『帝国百科全書』など、多数の日本側人気書物、実用書類のハワイ一手販売を手がけていた。  英文書名:History of the Foreign Intercourse of Hawaii 

 

5 和文書名『布哇同胞発展回顧誌』 ISBN 4-89253-276-2
デザイン的にみて、表紙はうまく纏まっているが、本文中に盛んに広告を差し込んだためにやや読みにくい部面がある。本書は、ハワイの日本語新聞の草分け『日布時事』の創刊25周年記念出版物で、「はしがき」は同社々長兼主筆の相賀安太郎(本書監修者・号は渓芳)が執筆している。巻頭の「布哇の変遷と日本人」は一読以ってハワイに関する実相の概要を要領良く窺うに足るものである。次いで、「産業」、「商業」、「宗教」、「教育」等々と順を追って考察し、日本人社会の変遷の歴史を回顧。終章は、「日布時事社の歴史」となっており、活字と写真で構成される。同社の、整然とした事務局や印刷工場の光景は、躍進する日本人社会の木鐸に相応しい。なお、付録部分には冠称として「日布時事附録」ともあり。 英文書名:Memoire of the Japanese in Hawaii 英文書名:The Japanese in Hawaii 〔以上二つ必要〕

 

6 和文書名『布哇日本人史』 ISBN 4-89253-277-0
木原隆吉(広島県出身)編著の本書は、ハワイの太平洋銀行の元行員がまとめた歴史写真を豊富に含む大作で、身体の不自由を押し切って上梓した昭和10年(1935)の記念碑である。なるほど、本書以前に、①『新布哇』(1900年)、②『布哇日本人発展史』(1915年)、③『布哇五十年史』(事実上②の弟2版に相当・1919年)、④『布哇同胞発展回顧誌』(1921年)があったが、いずれも絶版となっていた。しかしながら、以上の内容は概してハワイ事情が主で、日本人が従であった。一方、本書は日本人の史蹟を主として編述したので、この眼が新しいところだ。また、本書は官約移民布哇渡航五十周年を紀念するための紀念出版物『官約移民布哇渡航五十周年紀念史』を『布哇日本人史』と変更することによって陽の目を見たものでもある。その意味は、本書が多方面から公私の協力・助言を得た成果(賛助者芳名録は貴重・887頁以下)ということでもあり、その分、安心して読める所以でもある。しかも、校正は東京で山下草園が行った。最後になったが、本項目で採り上げたすべての著作は、結果的に、本シリーズを通じて入手することが可能となろう。英文書名: History of the Japanese in Hawaii

 

7 和文書名『大日本海外移住民史 第一編 布哇』 ISBN 4-89253-278-9
昭和12年(1937)に非売品として発行された本書は、藤井秀五郎の第二作目の挑戦であった(本シリーズ・布哇編第1冊)。彼は既に『新布哇』を著しており、今回は「第二の新布哇の発行」(著者の言葉)といい、かなり政治的な狙いもあったといえよう。巻頭に、「布哇地図」、「明治天皇御親書」、題辞(近衛篤麿公爵・近衛文麿総理ほか)があり、写真版が続く。構成には難があり、頁を捲って行くと、「上巻」、「中巻」(同胞事業の発達・新たに頁建て)、「下巻」(人物大観・新たに頁建て)となっている。なお、中巻と下巻の間に、「付記」(布哇の五十日)と題する藤井の署名入り文章あり(6頁分・目次欄では検索不可)。続編たる第二編の副書名を『北米』と定めたが、終に出版は挫折した模様である。英文書名:History of Emigration of the Great Imperial Japan: Pt.: 1 Hawaii

 

8 和文書名『布哇日本語教育史』 ISBN 4-89253-279-7  
社団法人の「布哇教育会」が、その創立20周年を記念して出版したものである。実際には、木村寅喜(同会常務理事)が編纂し、布哇報知社、木原隆吉(布哇の代表的文人)、浅野孝之(同会常務理事・後に東京の成蹊高等学校長)、寺田安太郎(布哇総領事歴任)らの絶大な協力により完成した。各序文、グラビアの歴史写真、それに本文といい、申し分のないハワイの日本語教育史となっている。同会は斯界の連合体であったため、域内各地教育会の提出原稿は、巻末の「各地教育会の沿革と事業」と題して掲載されている。有田八郎(1913年総領事代理・後に外務大臣)が序文でも云っているように、ハワイにおける教育問題は最重要課題のひとつで、それだけに現地の教育論争は多岐に渉り混乱を来していたが、1915年に上記の「布哇教育会」が成立し、一応の落着決定を見た。この歴史の中で忘れてはならない先覚者たちは、奥村多喜衛(高知県出身・同志社卒・牧師)、今村恵猛(御曹子寛猛は二世で慶應義塾に学ぶ)、角田柳作(群馬県出身・早稲田大学に学ぶ)、筧光顕らであった。時代は既に形式よりも精神的に、量よりも質への過渡期にあったとき、日本語学校は他の教科と共に常に米国市民を教育する方向へ進んでいたのである。それが、実質・事実・現実であった。その領分と使命を自覚しつつ、ハワイ当局の教育令・規定・法律を遵守し米人教育者の諸意見を求めて、日本人社会の中の日本語教育の改革・改造を追い求めている。その経緯は、本書第三章「所謂日本語学校問題」に詳しい。
ここで一言加えておきたい。日本語教育史と日本語学園史(日本人学校史)は、一つであってかつ二つの歴史である。私の調べた限りでは、ハワイに上記はあっても、日本語学園史の纏まった通史は存在しない。一方、カリフォルニア州には数種の日本語学園史があって、日本語教育史の秀作は見当たらない。この相違点については、それなりの深刻な背景と理由があったことをまともに認識する必要がある。加えて、生活者の日本語教育史と日本語学園史とが、ハワイ大学やカリフォルニア大学の授業課題・研究や調査の対象となっていない。お互いにお互いを学んでいない。情報交換や連携授業等々の事跡がほとんどみられないのである。日本人生活者たちも、人種的に自己中心主義の時代で、メキシコ人や中国人の実状には全く関心がない。マイノリテーとかアジア人という、より広い視野からの、協力し合いつつ事態の改善・改革をして行くという基本概念に欠けていた過去がある。幸い、ハワイには若き上原征生(熊本県出身・苦学力行型)がおり、終生ハワイ大学における日本語教育を天職とした日本人がいた。1930年代中葉におけるハワイ大学日本語科(東洋学 = Oriental Studies の一部門)は、原田助(アムハスト大学を経てエール大学で学位取得・同志社総長)を筆頭教授として、国友忠夫、そして上原征生(ハワイ大学卒・早稲田大学大学院に学ぶ)の陣容であった。上原は後年『ハワイの声・日系米人の随想録』(五月書房・1975年刊)を著わし日本でも幾分知られるようになった。彼の「損」をしているところは、名前の読みが難しいことと(「ゆくお」と読む)、英名が Uehara Yukuoでなく Uyehara Yukuoであったこと、それに加えて人生の途中でアメリカに帰化したからかも知れない。国友忠夫 (Kunitomo George Tadao) も日系二世などといわれて来たが、福岡県出身者であり、れっきとした「一世」である。ハワイ大学を休職して早稲田大学大学院に学んでいる間に日本語教育の「国策化」(日本語教育振興会)に巻き込まれ、波乱の人生を送った。教え子仲間を中心として『地の塩:国友忠夫教授の追憶』(同文集刊行会・1970年刊)が出ている。この場合、書名は実に良く内容にマッチしているもの、と思う。非売品。英文書名:History of the Japanese Language Education in Hawaii

 

9 和文書名『布哇邦人野球史』 ISBN4-89253-280-0
標題紙にある如く野球壱百年記念出版であり、発行所は「野球一百年祭布哇邦人野球史出版会」(オハフ島カネオヘ美以教会内)であった。詳しく云えば、米国野球技誕生百年祭、布哇邦人野球50年祭であった。同時に皇紀2600年祭の記念出版の意味もあったが、日本の時局は益々戦雲立ち込め、揮毫や序文を日本の名士に依頼する状況ではなかったらしい。それでも、本書刊行の前年、早稲田大学野球部を率いて布哇へ遠征した山本忠興(東京帝国大学卒・早稲田大学野球部長)の寄稿序文ひとつがある。短文にして淡々たる散文の中に教育者・野球人の切なる思いが認められたが、やがて国策の煽りを受けて野球は冬の時代へと突き進んだ。本書と上の教会との関係は、著作者が同教会の牧師を本職としていたことに尽きる。著者後藤鎮平(岩手県出身・日米高等学院々主・牧師)自身は、中堅手として名があり本書発行直前で試合数151回のレコードを持っていた。当時、ハワイ島ヒロには「日本人野球協会」(傘下5チーム・阿部三次会長)があり、「裏オハフ日本人野球リーグ」(傘下5チーム・岩永勇会長)などがあり、後藤は後者の顧問を兼ねていた。本書のグラビア写真と肖像写真の数々は、正に言葉を語りかけてくるかのような健児や選手の歴史写真である。
野球試合の予告・勝敗は、隈なく地元日本語新聞に競って掲載された。当時、元気印だった邦字紙に、『日布時事』(明治28年創刊・社長兼主筆・相賀安太郎・慶應と早稲田両大学の野球部を布哇に招待・ホノルル市・日刊・英文紙名The Nippu Jiji)、『火山新聞』(支配人田中弥六・ヒロ市・日刊・英文紙名The Kwazan)、『布哇報知』(社長牧野金三郎・主筆寺崎定助・ホノルル市・日刊・英文紙名The Hawaii Hochi)、『布哇新報』(主幹曽川政男・広島県出身野球人・ホノルル市・週刊)、『加哇新報』(主幹藤田卯一・広島県出身野球人・加哇郡リフェ)などがあった。印刷業の横綱格は株式会社共同印刷所(当山哲夫社長・沖縄県出身・ホノルル市)と云ってよかろうか。後々になって、当山の父親久三は文字通り「沖縄布哇移民の父」として名声を得た。もともと当山久三は、那覇市の泉崎で宮城貞秀と移民斡旋事務所を共同経営していた人物であった。英文書名:History of Japanese Baseball of Hawaii

 

第二期布哇編の解説はこちらからご高覧下さい

第1期-第4期までの内容解説は徐々にではありますが進めてまいります。準備が出来ました時点でTwitter等でご案内申し上げます。

又まだ一部にしか準備が出来ておりません各冊の目次も,徐々にではございますが,PDFにてご高覧頂けますように準備いたします。


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