大正12(1923)年関東大震災にあたり時の東京市長永田秀次郎は、第2次山本内閣の内務大臣兼帝都復興院総裁であった後藤新平によって構想され実行に移されんとした帝都復興事業、特に区画整理事業を大正13年春より精力的に実行した。もちろん、実行の過程では悲惨な目に逢わざるを得なかった市民も少なからず居り、多くの困難の中で計画変更や縮小はあったとしても遂にこの事業を無事完遂させた。
叉、永田市長は被災に際して、いち早く「市民諸君に告ぐ」と題した名演説をして、自身の固い決心と全東京市民の覚悟を問うた。しかも、これは口先だけのものではなかった。彼は、被害状況、対災活動等々全般にわたる情報を収集、記録することを直ちに命じた。これは未曾有の震災の記録を残すためだけでなく、今後の防災行政全般のわたる参考とするためであった。其の記録が結実したものがこの東京震災録全5巻であります。
現在我々も3.11に直面して、一年が経過しようと致しております。 3.11は関東大震災より広域で、震災や津波ばかりでなく、放射能の問題も抱えております。はたして3.11に関して数年後にはこのように立派な調査報告書が世に問われる時がくる事があるのでしょうか? |