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文生書院の本

刊行物新刊

『矢橋丈吉を探して『自伝叙事詩 黒旗のもとに』を読む』◆弊社新刊◆

アナキスト芸術家、矢橋丈吉の生涯を、矢橋唯一の著書『自伝叙事詩 黒旗のもとに』を手がかりに探る。

2023年12月8日発売
著者:戸田桂太(とだ けいた)

A5判 362頁
3,200円(+税)
ISBN978-4-89253-655-7

月刊「アナキズム」(第47号、2024年2月1日 https://anarchism.blog.jp/)に書評が掲載されました。評・冨板敦氏

傷ついた百足のようにのたうちながら生きて
殺虫剤をくらってコロリと死ぬ蠅のように私は死にたい
遺言も葬列も墓碑もなく風化したい。
百足や蠅や蝶たちと同じように ― 。
私はそんな「民草」であり
「無権威者」の誇りと「位」を汚したくない。
(無権威者の「位」 矢橋丈吉 昭38・1月)
本書エピグラフより


自宅書斎での矢橋丈吉。昭和36、7年頃の写真と思われるが、撮影年は不詳。

《本書の内容》
明治36(1903)年、北海道の開拓地、蜂須賀農場の小作人の息子として育ち、大正9(1920)年、貧困に耐えかねて東京に出奔。アナキズム思想を身にまとい、マヴォのなかまと狂騒の青春をおくり、詩作や芸術作品の制作に耽り、結婚して、広告会社・オリオン社で雑誌『オール女性』の編集長として働き、戦後は待望であった出版社「組合書店」を経営し、昭和39(1964)年、唯一の著書『自伝叙事詩 黒旗のもとに』を遺して60歳でこの世を去った男、矢橋丈吉。本書は、『自伝叙事詩 黒旗のもとに』を手がかりに、文献の海に深く潜り、資料や遺族知人をたずねてあちこちを旅して、矢橋丈吉を探し続けた著者の執念の作。師や友の、辻潤、尾形亀之助、菊田一夫、村山知義、戸田達雄らとの交流も丁寧に述べられている。

《著者について》
戸田桂太
1940年東京に生まれる。
1963年早稲田大学文学部仏文専攻卒業、NHKに入り主としてドキュメンタリー番組の撮影に従事する。16ミリフィルムからハイビジョンまで、テレビの映像制作に従事。
退職後、NHK出版で『放送文化』誌の編集などに携わる。
2002年から、武蔵大学社会学部教授として、映像、メディア、ドキュメンタリー研究などの授業で教鞭をとり、学生の映像制作を指導する。2009年定年退職。
大正、昭和期の思想・文化・芸術に関心があり、独自に学習・研究を続ける。
その間、毎日映画コンクール選考委員、ギャラクシー賞テレビ部門選奨委員、文化庁芸術祭テレビドキュメンタリー部門審査委員、文化庁映画賞選考委員などを歴任。
武蔵大学名誉教授。日本映画撮影監督協会会員。

《矢橋丈吉略年譜・執筆録(一九〇三~一九六四)》(本書巻末より抄録)
明治36(1903)年
7月15日、父鉄次郎、母とふの次男として岐阜県に生まれる。
明治39(1906)年
3月、矢橋家一家6人、北海道雨竜郡雨竜村字渭ノ津の開拓地に移住、蜂須賀農場の小作人となり、大豆、小豆などの豆類、菜種、燕麦、大麦を栽培する。
大正9(1920)年
12月9日、17歳の丈吉は5歳上の兄利三郎と二人、家族を残して東京へ出奔する。牛込区改代町に兄と共に三畳一間を借り、東京暮らしを始める。
大正10(1921)年
某日、アナキストらが近衛文麿邸で近衛面会強要事件を起こし、矢橋もこれに参加。この機会に「公麿」と名乗り、昭和初期まで「矢橋公麿」をペンネームとする。
大正12(1923)年、20歳。
5月、ドイツ帰りの村山知義の「意識的構成主義的小品展」を見て、仰天する。
6月、村山知義、柳瀬正夢、尾形亀之助、大浦周造、門脇普郎の5名により「マヴォ」が結成される。
7月、「マヴォ第一回展」浅草伝法院で開催。
8月、20歳。この頃「マヴォ」に加盟したか。
8月、友人のイワノフ・スミヤビッチこと住谷磐根の二科展入選作品をめぐって、村山知義と共に「二科入選作撤回運動」を主導し、二科会批判を強める。
9月1日「関東大震災」が首都東京一円を襲う。矢橋は神田三崎町の印刷工場で地震に遭遇。3日、戒厳令のもと、小滝橋付近で、「不逞鮮人・社会主義者狩り」の軍隊に身分を疑われて銃殺の危機を体験する。
大正13(1924)年
6月、「意識的構成主義的連続展・矢橋公麿展」開催。7月、『マヴォ』創刊号刊。エッセイ「狂愚の愛 ― 不具者の言葉」掲載。8月、『マヴォ』第二号刊。リノカット版画「自画像」掲載。9月、『マヴォ』第三号刊、写真作品「死の舞踏」に他のメンバーと共に参加。10月、「マヴォ」第四号刊、リノカット版画「貴族の像」、オブジェ「私のオナニ」、詩三編を掲載。
『マヴォ』は四号で休刊となる。
12月、詩人仲間の飯田徳太郎の提案で、壷井繁治、岡田龍夫、平林たい子等と銚子海岸の貸別荘合宿に参加する。
年末の10日間、画廊九段にて『マヴォ展』開催。「憂鬱なる夢」と題したオブジェを出品。
大正14(1925)年
4月、マヴォメンバーと共に画廊九段での第二回無選首都展に出品。
6月、『マヴォ』第五号刊(後期マヴォ)。矢橋はリノカット版画(無題)を掲載。7月『マヴォ』第六号刊。「詩とエッセイによる作品・石」とダイアローグ劇脚本「病」を発表。8月、『マヴォ』第七号刊。舞台劇「残虐者の建築」のための舞台イメージ二作品(リノカット版画作品)を掲載。『世界詩人』創刊号に、詩「十万マイル」「豚と混血児に与ふる」の二作を発表する。『マヴォ』誌は七号で廃刊となる。
10月、萩原恭次郎詩集『死刑宣告』が長隆舎書店から刊行される。
大正15・昭和元(1926)年
4月、『文芸市場』(梅原北明編輯)に戯曲「硫酸と毒蜘蛛」を掲載。
5月、画家横井弘三が企画・開催したアンデパンダン展「理想大展覧会」に「作品」を出品する。
太平洋詩人協会から『太平洋詩人』創刊〈編輯・渡邊渡〉。エッセイ「断片」を掲載。太平洋詩人協会印刷部が作られ、印刷業務を担当した。また、矢橋公麿中心の雑誌『低氣壓』が一号だけ発行された模様。
11月、太平洋詩人と女性詩人主催の「詩・舞踊・演劇の夕」が讀賣会館で開催され、矢橋公麿作の舞台劇「二人の廃疾者」が上演される。菊田一夫、渡邊渡らが出演。
小野十三郎の第一詩集『半分開いた窓』の表紙の装幀を担当。リノカットの挿絵も岡田龍夫と共に担当。
12月、『太平洋詩人』四号に「矢橋公馬」の名前でエッセイ「雑感一束」を掲載。
昭和2(1927)年
1月、『文藝解放』が創刊される(印刷発行人壷井繁治)同人はアナキズム系の作家、詩人、思想家ら二十数名、萩原恭次郎、岡田龍夫らと共に参加。この時本名の「矢橋丈吉」を名乗る。
2月、出版社春陽堂が刊行する円本『明治大正文学全集』の校閲担当準社員に採用される。月給四十五円。
『太平洋詩人』二巻二号に「散文・断想」を掲載、筆名矢橋丈吉。
3月、雑誌『若草』三号に、矢橋公馬の筆名で掌編創作「濤に語る」を掲載。
4月、『文藝解放』四号に丈吉名で「無産派作品短評」、5月、第五号に公麿名で「菓子を盗んだ子供」を掲載。他に文芸講演会や地方講演旅行に参加している。
9月、全無産階級文芸雑誌『バリケード』創刊。表紙デザインを担当する。翌年創刊された『黒色文藝』誌の表紙もデザインする。
この頃『黒色文藝』の編集者星野準二と矢橋はアナ・ボル対立の乱闘で中野署に逮捕される。
昭和3(1928)年、25歳。
1月、岡本潤詩集『夜から朝へ』刊行、装幀と挿絵(リノカット)を担当する。
6月、アナキズム文芸誌『單騎』を飯田徳太郎らと創刊。巻頭詩と「二十一の春」(エッセイ)、「二畳の住人より」(創刊の言葉)を掲載。表紙・扉頁のデザインも担当した。
7月、雑誌『悪い仲間』二巻七号に短編創作「四月二十九日の六蔵」を掲載。
8月、『單騎』二号発行。エッセイ「痴情点描録」、「編輯雑記」を執筆。
9月、全国労働組合自由聯合会機関誌『自由聯合新聞』に短編「円に龍の字」を掲載。
10月、『單騎』三号発行。死刑に処された中浜哲追悼の短編「死んだNの価値」を掲載。編集後記で「矛盾・單騎の合併」を伝える。飯田徳太郎とは恋愛関係のもつれで絶交となる。新発行所は東京市小石川区西江戸川町十三、高橋方。
11月、『悪い仲間』改題『文藝ビルデング』に自伝的創作「恵岱別川」を掲載。
昭和4(1929)年
3月、『文藝ビルデング』に創作「『お前さんと私』の夢」掲載。
4月、『矛盾』にエッセイ「舌足らずの弁 ― 生活その日その日」掲載。
5月、『文藝ビルデング』に創作「きれぎれな物語(ロマンス)」掲載。アンソロジー『アナキスト詩集』に『單騎』創刊号の巻頭詩が掲載される。題名「火夫」。
8月、勤務する春陽堂の経営者と対立して組合闘争を起こす。一時金や手当を勝ち取ったが、矢橋は馘首される。
10月、『矛盾』六号にエッセイ風のレポート「移住民部落の生活」掲載。
11月、『自由聯合新聞』に短編「源親父の話」掲載。
昭和5(1930)年、27歳。
2月~6月、東京市が実施した「失業救済土木工事」に参加し、赤坂山王下~新町の下水管敷設工事に従事する。岡本潤、菊岡久利、小山内龍、東井信福らアナキストが多く参加した。
8月、尾形亀之助が芳本優を連れて信州諏訪の布半旅館に滞在する。矢橋は亀之助を案じて、諏訪湖訪問。
10月、『自由聯合新聞』に短編「体で生きる男達」掲載。
昭和6(1931)年
4月、『近代思潮』創刊号に短編小説「泡盛バー物語」を掲載という(未確認)。
それ以外には、昭和6年、7年は執筆、行動ともに不明。
昭和8(1933)年、30歳。
6月9日、徒歩で仙台に向かう徒歩旅行を実行。仙台に蟄居している尾形亀之助を訪ねる旅である。平まで歩いて、体調不良となり、鉄道で仙台に辿りつく。尾形亀之助夫妻の歓待を得て仙台に滞在約半月、裏磐梯経由猪苗代湖から列車で7月15日に帰京。
帰京後、千葉県多古町出身の山室はな(明治40年4月14日生まれ)と所帯を持つ。大森区馬込の借家に新居を持つ。
マヴォ以来の友人戸田達雄や片柳忠男の経営するオリオン社に勤めて、『オール女性』誌の編集長として、仕事を始める。
昭和9(1934)年
1月、『オール女性』創刊号発行。
昭和10(1935)年、32歳。
2月5日、山室はなと正式に結婚(婚姻届提出)した。
3月1日、長女法子誕生。
8月、オリオン社の社内誌『換気塔』に長女誕生のことなどを書いたエッセイ「手紙」を掲載。
昭和11(1936)年
3月~4月、オリオン社に来訪する辻潤と頻繁に会う。『オール女性』6、7月号に掲載の水島流吉(辻潤のペンネーム)による仙台徒歩旅行記執筆のためと思われる。
昭和12(1937)年
11月6日、長男耕平誕生。
12月『みずゑ』12月号に岡田龍夫が「マヴオの想ひ出」を執筆。この頃から、矢橋は「橋槐太」なるペンネームを使う。
昭和13(1938)年、35歳。
8月、富士登山。下山して西湖の辻まこと所有のツブラ小屋を訪ねる。
9月、甲斐駒ケ岳へ。同行者は辻、鈴木とメモあり。
昭和14(1939)年
5月16日、次男流平誕生。
6月、『オール女性』の編輯長を降りる。
6月10日、蓼科山登山、同行辻、鈴木。8月8日、白馬岳へ。8月31日から北アルプス燕岳、槍ケ岳へ。この年、雪の季節には新鹿沢、志賀高原へスキーツアー。
4月には小山内龍と丹沢札掛にギフチョウ採集にも行く。
昭和15(1940)年、37歳。
3月、父鉄次郎死去、享年69(明治4年生まれ)。
オリオン社が出版部門を独立させて、「大和書店」を設立し、編集担当役員として加わる。
昭和16(1941)年
4月8日、次女百合子誕生。7月、母とふ死去(享年不詳)。
12月8日、アジア太平洋戦争開戦。
昭和18(1943)年、40歳。
1月8日、三女るり子誕生。
~昭和20(1945)年
戦局は激化し、用紙の欠乏などで「大和書店」の出版事業は停滞した。この間、巽聖歌に見込まれて、「中央出版協会」の仕事を手伝う一方、妻子の疎開先の千葉県多古町の妻の実家を度々訪れる。
8月15日敗戦。42歳。
昭和21(1946)年
6月、「組合書店」を創業する。石川三四郎『社会美学としての無政府主義』を皮切りに、社会科学系の書籍、新美南吉作品の数々、童話や子ども向けの絵本などバラエティ豊かな出版を続けた。小山内龍『昆虫放談』や古田大次郎遺著『死刑囚の思ひ出』なども再版した。
昭和24(1949)年、46歳。
11月24日、辻潤の命日。東京染井の西福寺境内に墓碑ができ、多くの関係者、作家、文化人が集って集会を開いた。矢橋も辻まこととともに参加。
昭和29(1954)年
雑誌『宣伝会議』の編集発行をオリオン社が引き受けることになり、編集顧問として、オリオン社に招かれた。
昭和34(1959)年
9月23日夕方、自宅にて右半身のシビレを感じる。次男流平に付き添われて新橋本部病院へ、そのまま入院する。最初の脳出血の発作である。
10月10日に退院。
10月12日の日記に「自伝的長詩書きかかる」とある。
昭和35(1960)年
12月18日、芸術座で公演中の芸術祭参加、菊田一夫作・演出。東宝現代劇『がしんたれ』、妻と耕平の三人で見に行く。
昭和38(1963)年
7月15日、60歳還暦を迎える。
12月4日が自著の校了の日である。
校了の10日後の12月14日、三度目の脳出血の発作に襲われ、救急車で病院に運ばれ、その後転院した大井町駅近くの厚生会病院で療養を続けた。
昭和39(1964)年
1月20日、矢橋丈吉唯一の著書である『自伝叙事詩 黒旗のもとに』はこの日発行された。定価六百円。
5月28日午後、矢橋は入院先の病院で死去。60歳11か月の生涯だった。

 

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  • 『矢橋丈吉を探して『自伝叙事詩 黒旗のもとに』を読む』
  • 戸田桂太
  • 3,520円(税込)

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