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古書

在庫品+洋書

TALLEYRAND タレーラン


Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord 1754–1838

A COLLECTION OF 257
BOOKS,
PRINTS,
AUTOGRAPHS,
DRAWINGS & MANUSCRIPTS
SPANNING A LIFE IN DIPLOMACY

Price upon request

各タイトルの詳細を記載したPDFカタログ(232ページ)があります。こちらよりご請求ください。


 TALLEYRAND an introduction

シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール(1754-1838)ほど、バスティーユの陥落に始まり1830年の革命に終わる激動の一連の出来事に深く関与した人物はいない。多くの出来事が彼の運命を形作るのに役立っている。まず、内反足(足と足首の形や位置がねじれる先天異常)である。これがため、両親は彼には父親の持つ多くの称号を受け継ぐ資格がないとみなした。その代わりに、気質的にも性向的にもまったく向いていないにもかかわらず、彼は教会に入ることに定められた。彼はランスの大司教、叔父のアレクサンドルの庇護のもと聖職についた(16)。しかしながら、1780年に代理司祭に任命されると、教会内で彼の天賦の才能が発揮されることになった。この職は閑職のはずであった。しかし、タレーランはこの役職を、より広い分野に進出するきっかけになると考えた。彼は、教会は富裕であり、国家は事実上破産しているので、教会は政府から宝くじを発行する権利を買い取り、その後宝くじを廃止することを提案した。この提案は実現しなかったが、時の財務大臣カロンヌと接触することになった。カロンヌの自由貿易政策は、1786年のイギリスとの通商条約に代表されるもので、タレーランが経済学に新たな関心を抱くようになった背景には、カロンヌの存在があった。1788年、革命前夜、一族の利害により、彼はオータン司教に任命された。

タレーランは教区の代表として1789年の国民会議に参加し、第三身分会、現在は国民議会と呼ばれる、に加わった。友人のミラボーは彼を盟友とみなし(25,35)、彼は国家財政と教育の改革をいち早く推し進めた。彼は、教会と国家の間の不均衡を是正する唯一の方法として、教会財産の国有化(36, Sieyes原稿)を主張して聖職者たちを激怒させただけでなく、宝くじの廃止、ユダヤ人の解放も強硬に主張し、また、度量衡安定のため英仏で協議することを提案した。1790年、彼は議会の議長に選出された。一連の出来事が彼を教会から引き離していたが、フランスとオーストリア間での戦争への新たな攻撃的な傾向を不安を持って見ながら、ただ、イギリスとの戦争を未然に防ごうとした。友人であり放蕩仲間でもあるローザン公爵との使節団は政府に認められず(40)、パリに戻るが、パリはもはや彼にとって安全な場所ではないことをすぐに知ることになる。ダントンは彼にパスポートを渡した。彼は間一髪でロンドンに逃れた。

ロンドンで、彼は自分の資産を数えるほかすることがなかった。財産の第一、それは、貴族としての長い血脈である。たとえば、子どもの頃、曾祖母、シャレ公爵夫人を訪ねた。彼女は、ルイ13世に陰謀を企てた廉で1627年に処刑されたシャレ伯爵の孫の妻であったというような(1-2)。のちに、1808年、名声の絶頂にあった彼は、自分の血統をまとめさせ、「クリオへの手紙」Lettres a Clio (3)に印刷させた。 第二に、彼は、優れた一連の政治論文を出版したことを挙げることができた。それらは一連の政策と対策の提唱で、一部は時代を先取りしていが、それぞれの論文はすべて首尾一貫しており、のちに実現したものも多い。その中には、国家宝くじに対する攻撃(19)、国債償還のための融資計画(20)、教会資産の国有化、そして最も注目すべきは、ネッケルに対するテュルゴーの割引銀行制度の弁護(24 テュルゴーとネッケルの財政改革)、貨幣価値に与えるアッシニア紙幣の破壊的影響の予言(32)、十進硬貨の必要性(28)などがある。さらに、1790年に正式に承認された統一度量衡制度の提案(34 – この魅力的な原稿の注釈は誰によるものか)、フランス学士院で生み出された膨大な『民衆の教育に関する報告1971年』Rapport sur l’Instruction Publique 1791(36、タレーランの親友であるイギリスのアレクサンダー・ベーリングに贈られたものか)はフランスの教育制度の基礎を築いた。フランス革命の政治的成果の主要かつ最も建設的な部分がそこにはある。これらは明かにタレーランの仕事なのだ。第三にして最後の財産は、すでに膨大なものであった彼の蔵書の一部である。彼はそれを1793年に売却せざるを得なかった (42)。

1794年1月に新外国人法によりイギリスから追放され、フィラデルフィア行きの船に乗ったとき、彼は、オスカー・ワイルドと同じように申告するものは自分の才能だけだった。シェルバーン卿からワシントンへの紹介状をもっていた。この手紙には礼儀正しい返事をもらったが、それ以上の返事はなく、これがはじめてのことではないが、タレーランは生きるために知恵を絞ることになった。タレーランがフィラデルフィアにいたころの様子は、キップリングの『思うにまかせぬ司祭』A Priest in Spite of Himselfに生き生きと描かれている。この小説の「タリラン」は、1番街84番地のモロー・ド・サンメリー書店に出入りしているが、おそらくそこでフランクリンのためにパリで印刷されフィラデルフィアで販売された『アメリカ13州の憲法 1783年』Constitutions des Treize Etats-Unis de l’Amerique 1783の原稿を手に入れたと思われる(43a)。彼は、アレクサンダー・ハミルトンと出会い、固い友情に結ばれた。常に賭博にいどみ(ハミルトンはやらなかったが)、取引所やカードテーブルで、マサチューセッツ州西部の材木林に投機して財を成し、後にその経験を活かして、当時の平和によって英米両国が享受した経済的利益を学士院での講義で指摘した(44-6)。この頃、彼はフィラデルフィアから国民会議に請願し(43b)、スタール夫人は彼の追放を解かせ、彼は総裁政府に加わるため帰国し、1797年に外務大臣となった。このように、彼の活動は書簡(47-55)に反映されており、その中にはアメリカとの秘密交渉も含まれており、彼はその弁明(53、献呈原稿)を印刷することを余儀なくされている。

執政政府のクーデターが起きても、彼に変化はなく、大臣としての通信を休むことなく続けた。彼は旧友ナルボンヌ伯爵にたいする禁令を解かせることができた(57)。イギリスとの和平を実現することはできなかったが(59)、彼はそれが絶望的な希望だと思ったが、アミアンの和約の起草には積極的に参加した(62)。フランスの軍事力を力強く描き出したオテリーヴの『フランス国家について 1800年』De l’Etat de la France 1800(60)は、タレーランが部分的に起草している。

ナポレオンは自由に東へ進出するようになり、オーストリアとドイツの大部分を蹂躙した。タレーランは、いやいやながら、その始末につぐ始末の交渉を強いられたが、アウステルリッツとプレスブルク条約(70a)以降、もはや皇帝を抑えることができなくなった。革命以前から彼が提唱してきた、フランスを国境に封じ込めるというヨーロッパの平和は、ますます淡いものとなっていった。イギリスの風刺画家たち(66, 69, 71-5)が彼の見解を知っていたくらいなのだから、ナポレオンも把握していたに違いないが、ナポレオンはタレーランから与えられた忠告を無視することにした。ティルジット条約(78)により、タレーランは大臣の雑用から解放され、侍従長および副大選挙官に昇進して、3人の執政につぐ地位となった。したがって彼は宮廷支出を認可する最高権威者となった(76-7, 79-80)。ジェラールは、彼の新しい魅力を見事に捉えられている(83-91)。いつものことだが、イギリスの諷刺画家たちは、残酷なほどの正確さで事態を捉えていた (81-2, 92, 95)。タレーランは最も古い財界の友人と密接な関係を保った。今回に限らず、アムステルダムの銀行家、アレクサンダー・ベーリングの義兄であるピエール=セザール・ラ・ブシェールを注意深く見守り、出来事の進捗と緊密な接触を保った(96)。

注意深く、タレーランはナポレオン最後の作戦のあいだは逼塞し、姿を現したのは彼と家族がパリを離れる孤立期間だけだった。彼は残った。そして、勝利した同盟国が摂政について議論するようになったのは、タレーランが残ったからである。副大選挙官である彼は帝国の先任将校であり、4人の代表を臨時政府のかつての元老院として選んだのも彼だった(シャトーブリアンの「ホイーストのテーブル」)。彼は、ブルボン家の復帰条件を作成した。イギリスの風刺画家たち(97,99)の笑いものになっていた彼が、今度は失望したボナパルティストたち(98)の笑いものになった。その後のパリ条約は、フランスが1792年に保持したすべての領土を保持することを認め、賠償金を免除するもので、まさにタレーランの交渉の最高傑作であった(100)。再び外務大臣となった彼は、1815年のウィーン会議でフランスの首席代表となった。リグーヌ公の格言「Le Congres ne marche pas, mais il danse(会議は踊る、されど進まず)」(106)は風刺画家たち (103)や、特にドラクロワに捉えられた。皮肉なことに、おそらく彼の父親だった男(ドラクロワの父親はタレーランだという伝説がある)は、間違いなくその格言を高く評価したにちがいない。ナポレオンの帰還は会議を結論へ急がせた。活動の中心はベルギーに移り、タレーランは「トゥータ(すべて)氏」(108)と呼ばれる存在となった。彼は、帰国したルイ18世のもと、政府の長、またいつものように外務大臣となることを、不本意ながら受け入れられなければならなかった。彼は、ウィルバーフォースがフランス領内での奴隷制の廃止を訴えたまさにその相手であるが、条約にそれを具体化することになる(110)。最後に、タレーランは、自分の最大の功績が、ウジェーヌ・イザベイの記念碑的な絵画、ジャン・ゴドフロイの彫刻、そしてゴドフロイ・エンゲルマンによるまだ新しい技術だった石版印刷によって、ふさわしく記念されるようにはからった(111)。

ブルボン家の感謝は長くは続かず、「王党派」たちの憎悪によって、彼の継続的な活動は不可能となった。1815年9月19日、評判を悪くするであろうことを知っていながら、パリ条約の最終条項に同意せず、辞任した。彼の後任は、彼自身と同じ穏健派のリシュリュー公爵であった。公職を離れた彼は、非常な尊敬をもって遇された。彼は侍従長に任命された。それは宮廷での公式な立場と、10万フランの年金が支給される名誉職であった。これはまた、彼の新しい地位は宮廷支出に対する責任を伴うものでもあった(119,121)。さらに、ベルギーの銀行家シモンズが破綻し、彼は二度目となる書籍の売却を余儀なくされた。今回は、1793年に持っていたものよりも優れた古い書物であった(117)。1812年のロクスブルグ売却以来、ロンドンで高値がついたのを見て、彼は賢明にも、ベーリングとラ・ブシェールを通じてサザビーズに委託し、その売却によって20万フラン以上の利益を得たのである。彼がイギリスの友人たちを信頼していたことは、ラ・ブシェール宛ての手紙(123)によく表れている。彼がフランス国外でも忘れられていなかったことは、両シチリア国王フェルディナンド1世がディーノ公国を与えたことでも明かである(118)。ディーノ公国領は甥のエドモンに遺され、その死後は彼の妻にわたった。エドモンの妻ディーノ公爵夫人は、その後の数年間タレーランの何よりも大切な人であった(養継嗣エドモンの妻ディーノ公爵夫人ドロテア・フォン・ビロンはタレーランの晩年の愛人)。

1824年にルイ18世が逝去し、シャルル10世が絶対主義に傾くと、タレーランは新しい秘蔵っ子のティエールが編集した革命的な国民新聞に介入し支援した。ルイ=フィリップ・ドルレアンを王位に就かせた1830年7月の革命を、サン・フロランタン通りの自邸で注視し、承認した。グランヴィルの風刺画は、彼がこの変革の責任者であると広く知られていたことを示している(131)。新しい君主制が受け入れられるためには、イギリスの支持を得ることが極めて重要であった。そこで、今や77歳になった老人は、最後の外交任務として、大使としてロンドンに送り出された。ここで彼は、まもなくアシュバートン卿となるベーリングやラ・ブシェールとの友情を新たにし(128)、ロンドンの風刺画家たちの関心を再び集めることになる(129)。彼は、現在の首相であるウェントン公爵や他のヨーロッパ列強の代表者たちと、「ベルギー問題」についての交渉に突入した。オランダのオルタンス女王と長い付き合いがあったにもかかわらず、タレーランはベルギーの分離独立に賛成し、ヴィクトリア女王の姻戚にあたるサックス=コーブルク公レオポルドを新国王に選んだことが、ロンドンの会議で他の委員に承認された (130)。この時、正当な賞賛を与えたのはイギリスの風刺画家たちであった(132-3)。オランダはあまり面白くなかったようだ(134-5)。

タレーランの姿は常に特徴的で、風刺画家にとってますます魅力的な存在となった。ロンドンのオルセー伯爵とジョン・ドイル、パリの『戯画』誌のグランヴィル、バンジャマン、トラヴィエは、タレーランとその使節をほぼ月ごとに描いている(136~152)。カール・フォーゲルはドレスデンからやってきて、老いたるタレーランの有名な肖像画を描いた(154-7)。アーイ・シェーファーは旧友ホランド卿のために、より印象的な大使の肖像画を描いた(159)。彼は常にホランド邸でくつろいでおり、タレーランがルロワの『動物の知性と完全性についての哲学的書簡、人間についての数種の書簡』Lettres Philosophiques sur l’intelligence et la perfectibilite des animaux, avec quelques lettres sur l’homme(158)に署名したのもそこだった。彼の最後の功績は、1834年4月のフランス、イギリス、スペイン、ポルトガル間の四カ国同盟の調印であり、バンジャマンによって見事に風刺されている(151)。晩年は、ヴァランセーの自邸とトゥーレーヌ地方のロシュコットにあるディーノ公爵夫人の邸宅を行き来して過ごした (166-168)。そこはいつでもイギリスの旧友たちが歓迎されるべき場所であった。(169)。彼の最後の公の活動は、ともにアカデミーフランセーズの会員であるもう一人の旧友、ラインハルト伯爵のために称讃の演説をすることだった(170-171)。彼はその文章の原稿を彼の息子であるフラホー伯爵のスコットランド人の妻にわたした。フラホー伯爵はまた『ミニエ 1839年』Mignet’s 1839にタレーランの称讃を受けている(174)。

歿後、タレーランは生前に神話的な名声を得た人物が入るパンテオンに埋葬された。彼は 1789 年、旧友ミラボーによって『国家総覧』La Galerie des Etats-Generauxに加えられ、パンテオン入りの権利を得た。『国家総覧』は翌年英訳されている(180)。また、リヴァロルの『革命の偉人小事典』 Petit Dictionnaire des Grands Hommes de la Revolution (181) にも名を連ねた。その後、ワーテルローまで、そしてワーテルロー以後も、多くの架空の「回想録」が出版され、『風見鶏的人物事典』Dictionnaire des Girouettes(187)では、彼のあいまいな立場が風刺されている。1817年、死後出版されたスタール夫人の回想録はより信頼性が高く、ベッドフォード公爵を含む彼女の英国人の知人たちによって熱心に買い求められた(188)。シャトーブリアンやサミュエル・ロジャース(201-202)を含む、多くの回想録執筆者が、タレーランとその時代の歴史に神話を加えた。報道管制と風刺画の歴史家であるヴェルシンガーとシャンフルーリは、彼についての一節を見つけた(205-6)。これによって伝記は正確に1797年までさかのぼった(221)。これにブルームとヘンリー・リットン・ブルワーの両者が解説を寄稿している (230-231)。これは今日にいたるまで続いていることだが、この老人の、巧みに出版を延期された回想録は、1891年から92年までディーノ公爵夫人に預けられ、彼の同世代人がすべて死に絶えてしまうのを待つように仕組まれていた(176-178)。

このコレクションは、タレーランとその生涯と時代について、おそらくこれまでで最も完全な形で構成されている。彼の主要な業績である条約の原文をはじめ、印刷物として出版された主要な著作がすべてここに収められており、彼自身の自筆の手紙やその他のオリジナル文書もふんだんに盛り込まれている。フランス革命と第一帝政期ほど、参加者の回想録や同時代・後世の歴史家たちの関心を集めた時代はないだろう。主要なエディションはすべてここにある。タレーランは生涯を通じてゴシップやスキャンダルにさらされ、彼の周囲で育まれた伝説の数々は、当時のスキャンダル・シート、彼の性格や政策に対する悪意ある攻撃、時には彼の真の功績を評価する意見などに表れている。オルレアン家がフランスを偉大で平和な国に維持する任務を担うのを見るために、彼が放棄せざるを得なかった旧体制と新ボナパルト主義者の両方から、彼は半ば利口すぎると見られていたのである。これは、敵が彼の個人的な忠誠心について何と言おうと、決してぶれることのない彼の任務であった。このカタログが含んでいるのは、このことの記念碑であると同時に、彼の長い人生におけるその他の多くの業績でもある。

Nicolas Barker ニコラス・バーカー
OBE:Order of the British Empire(大英帝国勲章受勲者)
FBA:Fellow of the British Academy(英国アカデミー会員)

 

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