津石運河をご存知ですか 印刷

津石運河(中国・天津=石家荘間運河)資料

昭和13(1938)年、北支方面軍が華北平定後現地に設けた自治機関は玉克敏の主導する北支臨時政府である。 建設総署はこの中の重要な一部署で建設行政の執行機関であった。 大使館の建設班と共に方面軍第四課の直接の指揮下に入っており、最前線接敵地区の道路・河川・水路・住宅など 都市機能の早急な回復にあたった。 荒廃した占領地区を早急に復興させる重要な業務であるため、その指導要員として多くの技術者が日本から派遣された。 彼らの活躍が占領地行政の成否に係る事とて、この派遣人選は、内務、農林両省が中心になって行い、 主として直轄職員しかも第一線の最上席技術者たちが選ばれていた。

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支那事変が長期化し連合国の対日ABCD包囲網によって、南方の石油ボーキサイト等の戦力自活資源の輸入が絶たれるに及び日本の自立が困難になり、 ついに太平洋戦争に突入した訳であるが従来朝鮮経由で大陸縦走の輸送形態では到底戦力には間に合わないのでこれを出来るだけ早く日本へ輸送する必要に 迫られてきた。この解決の為に取られた方面軍の作戦命令が石津運河開鑿工事であり、山西の良質豊富な石炭や華北冀中平野の綿を生産の中心地である 石家荘から天津まで300kmの新運河を開き、天津より北九州に直送する計画でこの新運河が世に言われた石津運河工事であった。

そしてこの工事の円滑な推進を図る為の対民衆慰撫工作として採られたのが運河用水を分水して冀中平野を大々的に灌漑しようとしたもので 恵民土木として対八路軍工作の看板としたものである。全長約300kmのうち石家荘~子牙河合流点までの150kmに新運河を開鑿し、そこから天津までの 150kmは子牙河を改良開鑿しようとするもので、 既設の天津南京間の大運河に次ぐ運河を開鑿しようとするものであった。 そして、その水源は五台山麓の東冶鎮に大貯水堰堤を設け石家荘より約50km滹沱河上流の黄壁荘で取水、これを李村まで約5kmを隧道と蓋梁で導水、 これから石家荘の埠頭※2までは開水路として導水。この埠頭で一部分水。冀中平野の藁城県・晋県7万ヘクタールの畑地灌漑に充てようとするものであった。

黄壁荘での取水量は、運河の閘門消費量と灌漑用水それに水面蒸発を見込み毎秒25tとして計画した。 また、埠頭以下新運河150kmの落差約65mに対しては閘程5mの閘門13ヶ所を設け輸送大船團の運行を図らんとするものであった。

この工事は、水源の山西省五台山から取水口・導水路・運河開鑿地に到る全区間が八路軍の支配下にある為、通常の手段では工事の施工は困難であり 民衆の恵民効果を大々的に宣伝して住民の協力を得る必要があった。

総署職員の保護と工事の実施推進については石門の鷺部隊が直接あたっていたが、これに併行して民衆の宣撫が必要であり、 この為の要員としてわざわざ日本から呼ばれたのが戦後社会党の書記長として活躍された江田三郎氏で ある。 彼は当時農民運動の実践活動家として知られた人物であるが、彼の力量を良く知る大使館某氏の推薦で対八路工作員として特に石家荘に派遣され、 われわれの仲間に入り爾後工事中しばしば軍身敵地区に潜入し、八路軍幹部と直接交渉して工事成果の民衆に及ぼす福利効果を力説、大いに宣撫効果を発揮せら れたのであった。(http://www.shin-nihon.net/main/forum/unga.htm より引用)

 

以下5種 資料 一括 ¥300,000 (税別)

津石運河調査隊調査報告書 昭和14年6月 

津石運河青木調査隊 B5版 製本済 16p, 346p. 93図,70表付

附録: 工事実施計画 12p

洪水調節計画調書 56p,  6図 (昭和14年7月)

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津石運河調査隊調査報告書附属写真 (昭和14年6月)

津石運河青木調査隊編  A4版スクラップブック

34p. 100写真 (但し数枚欠落あり)
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津石運河踏査資料備忘  青木楠男編

第一号 (昭和13年12月-14年4月)

B5版  74p. 図版および地図含む。 ペン書きによる綺麗な自筆報告書

第二号と思われる74p. (戦後の資料も含まれている)
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履歴書類および謄本書類

露人(写真付き)・中国人・日本人

日本人の一部は戸籍謄本の添付あり
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地図 滹沱河(こだか 拼音: Hūtuó hé) の流域を中心にして

5万分之一 33枚  第三野戦測量隊 昭和12年12月複製

調査に沿って書き込みが残っております。

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青木楠男博士は、

明治26年7月23日、高知市で生まれ、第三高等学校を経て、大正7年7月、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業、ただちに内務省土木局へ入り、大正15年に内務省土木試験所に移り、昭和17年には土木試験所長に就任されました。 昭和21年に内務省を退官、創設まもない早稲田大学理工学部土木学科の主任教授に招かれました。昭和29年に理工学部長、大学院工学研究科委員長を歴任されたほか、評議員等として大学全体の運営にも参画され、昭和39年の定年退職まで、土木工学科の育成と発展に努力され、昭和40年、早稲田大学名誉教授に推されました。この間、東京帝国大学講師を25年間、東京工業大学講師を10年間にわたり兼務され、昭和40年から50年まで国士館大学工学部教授を務められ、数多くの土木技術者の教育と育成に精根を注がれました

大正12年の関東大震災で大被害を受けた多くの橋梁の復旧に携わられ、帝都復興事業のうち、地震に強い道路橋の設計基準づくりを強力に指導されました。博士の指導により隅田川に架けられた永代橋、清洲橋、両国橋、蔵前橋、言問橋などは、その後、長く名橋として都民に親しまれております。 さらに昭和初期において鋼道路橋に溶接工法の導入を積極的に推進され、橋梁の設計および架設技術の合理化、経済性の向上など、鋼溶接橋梁の先駆的な役割を果され、昭和19年には溶接学会会長に推されておられます。

昭和35年に藍綬褒章を受け、昭和40年に勲三等旭日中綬章を受章され、さらに昭和45年には勲二等瑞宝章の栄誉を得ておられます。又, 日本学士院会員に選定されたのは昭和41年11月でありました。










 

 

 

 


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