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東欧史研究の権威者 故マンフレッド・ヘルマン教授旧蔵書コレクション
Collection from library of Prof.Manfred Hellmann
Eastern Europe: Mirror of History
1,212 items in 1,580 volumes
¥9,660,000〔税込〕
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| マンフレッド・ヘルマン氏(1912-1992)の追悼にあたり |
| Carsten Goehrke |
マンフレッド・ヘルマン氏は、自身の80歳の誕生日を迎える、その12日前の1992年6月12日、不屈の威厳で耐えていた病によりミュンへンの地で亡くなった。この死で一つの学者人生の輪が閉じられた。それは、自身の同時代に生きた親族からよりも、今世紀の変革と混乱によって特徴づけられている。ヘルマン氏は長い間、自分自身を含む家族の存続と、自己の学者としてのキャリアとの間で葛藤しなければならなかった。国際的名声を得たのはその為に遅くなりは したが、その代わりにキャリアは多彩なものとなった。一番最近ではローマで行われたリトアニア誕生600年記念式典の公式来賓として招待されていた。ヘルマン氏は1912年6月24日にドイツバルチックの市民階級としてリガに生まれた。
祖先は18世紀の最初に勃発した大北方戦争(the Great Northern War)の結果広まったペスト菌の大流行を逃れて国を去り、ヘルマンが生まれた当時、まだリガは帝政ロシアに属していた。大学入学資格試験を受けるまでの学校教育を新しい共和国として生まれたラトビアで受けたが、かの地で大学教育を受け始めて間もなく、ラトビアでは学者としての未来が見いだす事が出来ないと考え、すぐに一番近くのドイツ領にあったケーニヒスベルグ大学( Konigsberg・ケーニヒスベルグは、かつての東プロイセン州の首都、1945年以後ソ連邦領となりカーリニングラードと改称)へ転校し、そこで1938年に「プロイセン領タウラゲ」についての論文を発表する。その後「国境・飛び地のドイツ語ハンドブック」編集に短期間携わり、数年にわたる勤務の後、先ずライプツィッヒでスラブ関連のゼミにおいて、続いてルドルフ・ケチュケ氏の最後の助手として「ドイツ地域・民族史研究所」において、それぞれまったく新しい研究/活動拠点を開拓しなければならなかった。1949年、ヘルマン氏は政治的理由からライプツィッヒにおいても将来の見通しが立たないと判断し、フライブルグに拠点を移す。当時37歳にして3度目になる新研究対象の模索を余儀なくされる。彼は新研究対象をGerd Tellenbach(ゲアード・テレンバッハ)氏の影響下にあったドイツの中世史に見いだす。1952年にフライブルグにおいて中世・近世史の教授資格を得、1956年に活動拠点をミュンスター大学へと移した。1959年、中世・近世史専攻学識者委員会において、東欧専門研究者として特別に任命された。47歳にして初めて大学において自身の居場所を見つける事が出来たのである。1964年に正教授に昇進した後は、東欧の歴史に集中して研究をする事が出来る様になった。ヘルマン氏は人生の中で活動拠点、活動分野を何度となく変えなければならなったことを常に新しい挑戦と捉え学術的に役立てていった。最初の論文はリトアニアにおけるドイツ人の歴史を捉え、その時代精神に当然の敬意を表されたが、戦後へルマン氏の関心は徐々にリトアニア全体、そして旧 Livland(リヴォニア・バルト海東岸地域の呼称。概ね今日のラトビアとエストニアに相当)の歴史に拡大されていった。ラテンヨーロッパにおける歴史的過渡期に関する様々な疑問、バルチックの歴史に関する結論を、ヘルマン氏は民族歴史の絡み合いの中から、また超国家的な観点から分析し導きだした。「リトアニアの歴史及び民族の基本的特質(1966年刊行)」と 「1569年までのリトアニア大公国」の1巻、「ロシアの歴史ハンドブック(1981/82年)」は学術的な遺産である。「リガの大司教の歴史」は残念乍ら未完のままに終わった。ライプツィッヒ時代のスラブ学時代は特に生産的であり、1947年にはN.g. Cernysevskijsの小説「Cto Delat?/Was tun?-What do?」を独自で翻訳し、また1948年にはドイツの詩集のロシア語訳を出版した。ルドルフ・ケチュケ氏との出会いの影響は、彼の教授資格取得論文「中世の中のリトアニア(1954年)」で 集落歴史的観点が非常に強く出ている点に現れている。またフライブルグ時代のテレンバッハの影響は中世後半の帝国史・憲法史に対する疑問解明研究に見られ、そこから発生したドイツ騎士団に対する興味は彼の最期まで尽きなかった。ミュンスターで教鞭を取るうち、スラブに関する総括的なテーマと並行してロシアの歴史が益々前面に顔をだすようになった。ヘルマン氏の時間的、テーマ的範囲もこの分野で感銘深いものになっている。今でも尚人気のある文庫本「ロシア革命1917」(1964年刊)、「暴君イワン4世の伝記に関するブックレット」(1966年刊)にその例を見る事が出来る。彼の莫大な創作力は自身の著作を出版する事だけに注がれたのではない。発行人としてもまたその力を発揮していた。1961年には共同発行人として、1966 年には代表発行人として「東ヨーロッパの歴史年報」の発行に携わり、またこの他にHerbert Ludat(ヘーベルト・ルーダート)と共に1963年には「東ヨーロッパの中世初頭の歴史に関する注釈・語彙集」」の刊行を始めたが1988年に出版打ち切りとなってしまった。Gottfried Schramm(ゴットフリード・シュラム)、Klaus Zernack(クラウス・ツェルナック)と共に全3巻の「ロシア歴史便覧」の刊行に携わった(出版は1976年より)1988年には壮大、且つ図版満載のロシア、ドイツに関する巻を編集している。ヘルマン氏は時代、場所、テーマの学術的な功労の範囲において、彼の世代には非常に少数になってしまった「歴史家」であった。彼は自己を東ヨーロッ パ専門の歴史家とは捉えておらず、総体的な見方をするヨーロッパの歴史家であるようにしていた。それ故、比較研究に特に重点をおいていた。その比較研究から派生した趣味の一つとして「ベニスの歴史の根本的特徴」(1976年刊)を著した。彼自身の学習能力が自然科学的に限界があるとしても、また彼の興味の対象が先ずは政治史・精神史・文化史・教会史・憲法史に置かれていたとしても、いつも新しい物事に関して興味を失わなかった。この性格は大学の上級ゼミで「プリムス・インテル・パレス(同輩者の中で最も優れた者)」として生徒達に示唆したように、自己の学術的アイデンティティーを見出すために必要な余裕を常に残しておくというものであった。外 側からみるヘルマン氏はしばしば近寄りがたい雰囲気を持っていた。他人が近寄りすぎると、つっけんどんな、鋭い応対をした。姿には威圧感が漂い、彼のバルト訛のドイツ語はきつくなった。その裏には繊細な、ややもすれば弱い性格が隠されていたのだが、その本質を隠す術を、学術的に確約された存在になるまでに何十年もかかった間の屈辱や失望に対して備える為に身につけなければならなかった。自分から仰々しくする事はなく、学術的な自慢をする事は嫌った。自身が好んだ単語、「Lieberchen(愛すべき輩)」と学生達からも敬意を込めて呼ばれた通り、ヘルマンは世事にうとい学者馬鹿で飾った所がなく、近親の助手達の間では色々な逸話が広まっているような人物であった。近しい人たちの輪、ボーリングや遠足、または疲労困憊するような上級ゼミ会議の後の飲み会の席になると、打ち解けて、抜群の冗談のセンスを披露し、大学生活中ずっと持ち続けるような連帯感を作るのであった。ドイツの歴史学がどれ位のものをヘルマンの死によって失ってしまったかは、ある程度時が経ってみないと分からないかもしれない。だが、バルチックの歴史研究分野においては、既に今後すぐには埋まらない穴があいてしまっている。 |
(訳責:文生書院)
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